『ふてほど』はドラマ史に残る“適切”な一作に 宮藤官九郎が描いてきた“生”と“死”の間
“あの日”のことは視聴者ひとりひとりが想像すればいいことなのかもしれない
そう考えると『ふてほど』には「生と死とのはっきりしないかもしれない境界線」と「死=終了ではなく継承の一環」とのふたつの要因が混在している。つまり、本来は1995年に旅立っているはずの市郎がタイムマシンや喫茶すきゃんだるのトイレに開いた穴で未来への時空を行き来することにより生と死の境界がふわっとしたものになり、たとえ1995年1月17日に市郎と純子がこの世から去っていたとしても、ふたりの命は渚とその息子へと継承されていると作中で示されているからだ。 冒頭部分に神戸の朝のそれからが描かれなかったことにモヤモヤが残ると書いた。だが、物語の結末が無限にある時空のループを可能にする穴の出現と、そこに一歩踏み出す市郎だった以上、やはりあの日のことは私たちそれぞれが想像すればいいことなのかもしれない。 最後に、一作のドラマがここまで多彩な視点で語られ、賛否両論を巻き起こしたことは素晴らしいと感じるし、自分とまったく異なる考えや見方を有する人の意見を聞いたり読んだりできるのも楽しかった。小ネタやギャグ、濃い登場人物たちのハチャメチャぶりを笑いながらサラっと観られそうで、じつはこれほど深掘りしがいのあるドラマは珍しいとも思う。そういう意味ではまったく“不適切”でない作品だった。
上村由紀子