「例を見ぬ苛酷な判決」弁護人が判決に対して意見したこと~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#28
食糧難、輸送難、マラリヤ病蔓延を考慮すべし
石垣島事件が起きたのは、1945年4月15日。すでに沖縄戦が始まり、石垣島は連合軍から連日、空襲され、石垣島警備隊でも死者が出ている中でのことだった。金井弁護士はそこに言及し、量刑が重すぎると主張している。 (石垣島事件の判決関する意見) (ニ)量刑について 本事件の当時は、味方の戦況極めて不利な時であり、かつ米軍の沖縄作戦が開始された後である。直属上級司令部との連絡は途絶え、連日の空襲により、闘志はみなぎり、全員、玉砕を覚悟して、時機の切迫した敵軍の上陸に対する防備に全力を傾けていたのである。この時、俘虜を入手した警備隊では、抑留しておくにしても、台湾などに押送するにしても、兵力の一部は割かねばならず、食糧難、輸送難、さらにマラリヤ病蔓延の事情がこれに加わっては、実際の所、その俘虜をもてあましたので、殺害を決意した心的課程は理解するに困難ではない。それか、違法であってもこの事情は量刑に当たり考慮されるべきで、内地の部隊、又は俘虜収容所などにおける同種事件と同一に論ずることは極めて苛酷である。ガダルカナル島における連合軍の日本軍人虐殺については、スミス検事自身、公判廷において、井上乙彦氏(石垣島警備隊司令)に対する訊問に言及している。委員会構成員も軍人である以上、この点に対する考慮を期待することは決して不当ではないと考える。
例を見ぬ苛酷な判決と言わねばならぬ
(石垣島事件の判決関する意見) (ロ)45名中(注・起訴時46名で1人分離)41名に対し絞首刑を宣告すると言うのは、この種、集団犯罪に対する刑罰としては、あまりにも不当である。その無茶であることについては言うべき言葉を持たない。集団犯罪の責任を論ずる時には、必ず人により、軽重の生ずることになるのは理の当然である。頭も手足も同一の責任を負い、教唆者も被教唆者も等しい刑を受けるという事は、量刑の初歩的法則をも無視するものと言わねばならぬ。前例に照らすも、例を見ぬ苛酷な判決と言わねばならぬ。ことに、本件は軍隊の組織を利用して行われたものである。刑責者であり教唆者である、上級者と教唆せられて実行した者との間に、大幅な、場合によれば段階的な差などが刑に付き、設けられねばならぬ事は自明の理である。前例に照らすも、本判決に類するものは存在しない。 金井弁護士は、石垣島事件の戦犯裁判は、ほかの裁判と比べても苛酷すぎると述べた。死刑を宣告された41人は、その後、2度行われた再審査によって34人が減刑され、最終的に藤中松雄ら7人が絞首刑を執行されたー。(エピソード29に続く) *本エピソードは第28話です。