受信機をメーカーに作ってもらうところから始め、「FM喫茶」「FM理髪店」が普及のきっかけに FM「育ての親」の後藤亘さんが証言する【放送100年③】
音の良いFMラジオは、日本では戦後に登場した。先行するAM放送と違い、受信機ゼロからのスタートだった。どのように普及し、発展してきたのか。FM放送の「育ての親」といわれるエフエム東京名誉相談役・後藤亘(わたる)さん(91)が、証言する。(共同通信編集委員・原真) 【写真】SNSでの誹謗中傷、被害者が本気出すとどうなる? イベントを中止に追い込んだ男女3人は… 「身の回りにいる友人や知人ではないかと思い怖かった」
▽原点は教育放送 「松前重義先生から『おまえ、やれ』と言われたんですよ」 後藤さんは、そう振り返る。松前さんは、逓信省(後の郵政省、現総務省)の技官から社会党の衆院議員に転じ、東海大を創立した大人物だ。 1933年に福島県で生まれた後藤さんは、東北大を卒業。洋画配給会社の東和映画(現東宝東和)に勤めていた時に、東北大の先輩である松前さんと出会う。 通信・放送技術に詳しく、教育に熱心な松前さんは、FMによる教育放送を計画する。遠くまで伝わるAMは、利用する中波の周波数が逼迫(ひっぱく)しつつあったのに対し、到達範囲は狭いが高音質のFMの超短波は、まだ空きがあった。松前さんは富士山頂からFMの電波を降らせることも検討したが、実現には課題が多い。1958年、東京・代々木にあった東海大の校舎屋上から、実験放送を始める。ラジオによる通信制高校の認可も得た。 松前さんは後藤さんに告げた。
「戦後の貧しい時代、義務教育さえ受けられなかった子どもが多い。中学・高校へ行ける子は、本当に少ない。でも、ラジオを使えば、働きながら、夜に勉強できるはずだ。民放AM局に相談したが、ゴールデンタイムに教育放送をやってくれるというところはなかった。自分でやるしかない」 そんなFM「生みの親」の言葉に感激した後藤さんは1960年、東海大が運営する「FM東海」に転職した。ちょうど、FM東海の放送免許が実験放送から実用化試験放送に格上げされ、番組にCMを入れられるようになった時期だった。 ▽高音質のクラシックやジャズ しかし、当時の受信機はAM専用で、FMを聞けるものはほとんどなかった。東海大が通信制高校の生徒に貸し出すため、学生に作らせた受信機ぐらいしか存在しない。実はNHKも1957年からFMの実験放送を行っていたが、AMと同じ番組を流すだけで、普及活動に積極的に取り組んではいなかった。