独占インタビュー:師弟関係にあった佐渡裕が語る、「小澤先生が教えてくれたこと」
タングルウッドのオーケストラで練習しているところに、小澤先生が見学に来られた日のことは忘れられません。ラベルの曲だったと思うんですが、私は一生懸命下手な英語で「ここはこうしてくれ」とか「ああしてくれ」と楽団員に指示していたんですね。すると、終わってから舞台の裏に来られた小澤先生に、激しいけんまくでこう言われました。 「お前はその指揮で音楽を示せ!」 言葉ではなく、腕と身体で音楽を示せということなんですね。役者じゃないんだから、しゃべる必要なんてない。練習では、無意味な話をする必要など全くない。重心を低くして、もっと低い腰の位置で指揮しなきゃいけないと。 練習の後、ご自宅に誘われました。まだ15歳だった娘の征良(せいら)ちゃんと一緒に、トラックのようなゴツい車に乗せられてご自宅に行きました。 お茶を入れていただいて、「あんたいま何してんの?」と尋ねられました。当時、日本での私は、アマチュアの学生オーケストラや高校の吹奏楽部の指揮、あるいはママさんコーラスの指揮をいくつも掛け持ちし、多い日は1日4カ所で振っていた。そこそこ収入はあります──そう話をしたら、小澤先生にこう一喝されました。 「あんたねぇ、ばかじゃなかったら、いま親のすねかじってでも勉強しなきゃ駄目でしょ。全てやめて留学しなさい」 その後、先生のアドバイスどおりウィーンに留学することになりますが、その前に1年弱、小澤先生が日本に帰られているときは勉強させてもらうことになりました。 新日本フィルのアシスタントコンダクターとして、オルフの「カルミナ・ブラーナ」やオペラ「サロメ」などのプロジェクトに参加しました。 桐朋学園の指揮クラスを先生が教えられるときには見学させてもらいました。桐朋学園は、小澤先生の師匠である齋藤秀雄氏の指揮法の総本山です。学生たちは一生懸命齋藤メソッドで厳格に指揮棒を振る練習をしています。正直なところ、それ自体には私は興味は持てませんでした。ある日、小澤先生が「佐渡君ちょっと振ってごらん」って言われて、学生たちの前でベートーベン「交響曲第2番」の冒頭を振りました。すると先生はこうおっしゃった。 「こいつはさぁ、汚い棒振るんだけど、いい音するんだよね」 もはや褒められてないのは分かっているのですが、それが自分のスタイルかなぁとは思い定めました。 当時の私とは違って、小澤先生は指揮棒を扱うことがものすごくうまかった。こんなにも正確にきびきびとオーケストラが仕上がるということに、アメリカでもヨーロッパでも、「小澤征爾」の登場は驚きの出来事だったと思います。 <年数と共に成熟していった> しかし小澤先生の指揮の姿は、その後大きく変化していきます。ウィーン国立歌劇場の音楽監督になられた頃から、指揮棒を持たなくなった。よくオーケストラの音を聴くようになった。あるいは、オーケストラをもっと自由に解放するようになられた。年齢と共に成熟していく過程を見てきた気がします。 最後は、オーケストラにやらせ、それを自分が聴くという境地に達したのではないか。そうなってくると、オーケストラのみんなが瞬時にしてテンポを感じて、ニュアンスを感じ、どういうリズムとスピードが適切かを判断するようになります。 先生には指揮の技術とは別に、音楽に対する強烈な情熱がありました。嫌なこともきっとあっただろうけど、どこに行っても人を楽しませて、おちゃめでいたずら好きで、いろんな文化や風習の違う国々を渡り歩いていくたくましさを持つ人でした。 かつてはN響と対立して楽団員にボイコットされるほどの衝突もありました。ぼろっと一回だけ「若い頃、自分はやっぱりつけ上がっていた。すごいショックだったけど、それは大きな勉強になった」というふうにおっしゃっていました。 小澤先生に1年間指導を受けた後、私はウィーンに留学し、89年にブザンソンの指揮者コンクールで優勝し、フランスを中心に仕事を始めていくことになります。その頃、小澤先生にこう言われました。「ヨーロッパで活動していくんだったら、ドイツのオーケストラを指揮しなさい」 どんなに小さくて未熟なオーケストラでもいいから、振りなさいとおっしゃるのです。ドイツ人のオーケストラ社会というのは、1日目の練習、2日目の練習で何をして、3日目の練習で何をつくってどう本番に持っていくか、そのプロセスが大事なんですね。楽団員が納得していなかったら、なかなか「ヤー(はい)」とは言わないんです。でもヤーって言ったら本当に、みんなで考えていたことを実行してくれる。 だからドイツのオーケストラは、ずっしりしているんだけれど、なにか跳ね上がっていて、輝いている。後にベルリン・フィルでも指揮することになりましたが、小澤先生が何を伝えたかったかが、今はよく分かります。 その後、留学を経て私が31歳で新日本フィルの指揮者グループの一人に選んでいただいたのも、「佐渡に指揮をやらせろ」という小澤先生の強い推薦があったからです。