日本のバルは「いぶりがっこクリームチーズ」を出しがち? 食の原理主義者・稲田俊輔氏による"あるある"だらけのニッポン外国料理史
キャベツが主役の回鍋肉(ホイコーロー)、鮮魚のカルパッチョ、ベーコンのカルボナーラ(生クリームベース)、甘くてフカフカのナンと辛さを選べるバターチキンカレー。どれも日本人の口に合うようにローカライズされた"日式外国料理"だ。 【写真】「食の原理主義者」を自認する、南インド料理店「エリックサウス」総料理長の稲田俊輔氏 「へえー初めて知った」という方、あなたは「普通の人」です。逆に「そんなの知ってるわい!」という人は、もしかしたら「食の原理主義者」(あるいはその素質がある人)かもしれません。 世界各国・各地の料理そのものを再現すること、あるいはそれを食べることを至福の喜びとする原理主義者たち。逆に、日本人の舌に合うように外国料理を"魔改造"して広めてきた挑戦者たちと、それを受け入れてきた大多数の普通の人々。 この両輪によって形づくられた日本独特の外国料理文化を描いたのが、南インド料理店「エリックサウス」総料理長を務める稲田俊輔(イナダシュンスケ)氏のエッセイ『異国の味』だ。 * * * ――この本では「まえがき」で、「僕自身は完全なる原理主義者です」と、ご自身の立場をはっきり示しています。どちらにも与(くみ)さない第三者の立場から書く選択肢もあったと思うのですが、なぜこの形を選んだのでしょうか? 稲田 原理主義者って、数の上ではいわば"珍獣"なんです(笑)。僕の周りにはインド料理マニアといわれる人たちを中心に、珍獣がかなりの数生息していますが、その中では当たり前のことが、たぶん外から見ると不思議な生態なんだろうなと。 この本では客観的な資料ではなく物語を作りたかったので、珍獣の行動や考え方をある種の見世物にしたほうが、エンターテインメントとして面白くなるだろうと思いました。 多くの原理主義者たちには「自分たちは特殊である」という意識が間違いなくあると思いますし、それがいい意味でのプライドにもなっています。彼らはよく「普通の人々」という言葉を使うんですよ。しかもためらいなく(笑)。 その上で自分を「珍獣です」みたいにちょっと卑下するか、山岡史郎(@『美味しんぼ』)のように「われこそはエリートである」という自意識になるのかは人それぞれですが、いずれにせよ数の上では少数であっても、新しい異国の味の文化が広まっていくときには、間違いなく重要な役割を果たしてきたと思います。そのドキュメント的なものを描きたかったというのもありますね。 ――この本を読むと、原理主義者の考え方や生態を知ることで、逆にそうではない自分の立ち位置もはっきりしてくるような感覚がありました。例えばスペイン料理の章では、原理主義者側から見た違和感の一例として、「なんちゃってバル」の「いぶりがっこクリームチーズ」や「アボカドサーモンタルタル」を挙げていますが、ああ、自分は何も気にせず注文していたなとか(笑)。 稲田 普通はそういうものを当たり前においしいもの、最近流行しているものとして食べますよね。ところが原理主義者やその周縁の民から見ると、ものすごい違和感というか、独特のストーリーを背負った食べ物という位置づけになる。いい悪いではなく、哲学がまったく違うという話だと思います。 ――でも、それでいながら"普通の人々"も、イタリア料理と言われるよりシチリア料理、シチリア料理と言われるより南シチリア料理と言われたほうがイイ感じに受け取るみたいなところがありますよね。 稲田 自分は正しいものを食べているという安心感なんでしょうね。決して悪い意味ではなく、"本場の味"という言葉自体がブランド的になっているというか。 ルイ・ヴィトンだから間違いないでしょうという感覚と、本場の南シチリア料理らしいから間違いないでしょうという感覚は、わりと似ているのかなと思います。 ――だけど、その南シチリア料理は、実際はもしかすると日本人向けに"魔改造"されたものかもしれない。 稲田 そこには確かに矛盾というか人間の複雑さがあって、本場を求めるけど本当に本場の舌に合わないものを出されたら困るな、という人のほうが多いんです。でも、そのあたりをあいまいにしたまま楽しめるからこそ、日本ではさまざまな外国料理が受け入れられてきたのかもしれません。 ちなみに原理主義者としては、ホンモノの本場の味が出てきてちょっと食べづらかったりすると、むしろうれしくなります。俺の側がまだ合わせられていないだけなんだ、みたいな(笑)。