柴犬が今の姿になったのはいつ? 激動の昭和史と柴犬の過酷な運命
国内外で人気の高い柴犬。天然記念物にも指定されている犬種だが、この柴犬が今日私たちが認識する姿になった背景には、長い歴史と多くの人の努力があった。 ■各地の小型犬から「柴犬」は生まれた 柴犬は秋田犬と並んで、日本を代表する犬種である。しかし秋田犬は、もはや国内では支えきれないほど飼育数が減っている。一方、日本犬で唯一の小型犬である柴犬は、ほぼ安定した飼育数を維持している。日本で飼われている日本犬の8割は柴犬だ。 ぎりぎりマンションでも飼える大きさで、可愛さと凛々しさの双方を備えているのが柴犬の強みである。しかし、柴犬の今日における不動の地位は、多くの人々の汗と涙の結晶なのである。 柴犬は日本犬6種の中で唯一、地名を冠していない犬種だ。ここに柴犬の成り立ちが現れている。明治の末頃までは日本各地に、鳥やうさぎを獲る様々な小型犬がいた。しかし大正に入る頃には、その多くが絶滅してしまっていた。 そこで産地にこだわらず、わずかに生き残っていた小型犬をまとめて正式に「柴犬」という名称をつけ、天然記念物の指定を受けた。昭和11年(1936)、二・二六事件が起きて、世論が急速に戦争に傾いた年のことである。私たちが今知っている柴犬は、厳密にはこの時に誕生した。柴犬の歴史は、山奥で生き残っていた小型犬を探し、系統繁殖して固定化することから始まったのだ。 そもそも、小型の日本犬が注目され始めたのは、昭和3年(1929)頃のことである。日本犬保存会創立者の斎藤弘吉が、群馬県上野村の十石峠付近で猟師が飼っていた優秀な小型犬を譲り受け、「十石号」と名付けて紹介したことによる。 そこで、犬好きや業者たちが上野村に殺到したが、もはやいい犬はいなかった。また十石号も、系統繁殖のための種犬にはなれなかった。固定化できなければ、犬種を維持できない。いい犬を見つけることは関係者の悲願となった。そんな中で発見され、今日につながる柴犬の源流となったのは、島根県の山奥で人知れずひっそりと飼われていた犬、「石号」である。 石号は、益田市美都町で暮らす下山信市の飼犬だった。今も孫の博之がそこで農業を営んでいる。そこは風景が昭和初期とほとんど変わっていない、緑豊かな森の中である。 当時、東京在住で島根県出身の歯科医、中村鶴吉が熱心に犬を集めていた。その中村に依頼されて犬を探しに来た人が、石号を発見して価値を認め、譲り受けたのである。石号は東京で、石州犬(せっしゅういぬ)の逸物として高く評価された。山陰には昔から、石州犬や石見犬(いわみいぬ)と呼ばれる小型犬がいた。 飼い主の下山は、古くから近隣にいた犬を飼っていただけで、石号にそんな価値があるとは知らなかったし、その後の展開も知らないまま人生を終えたらしい。孫の博之も祖母から、かつて利口な犬がいたという話は聞いていたが、それ以上のことは知らなかったという。 日本犬保存運動は東京で始まり、都会を中心に盛り上がっていた。一方、山中で日本犬を飼っていた人々は、犬の飼育の中心になっていた洋犬とは無縁だった。そのため、昔ながらの犬を必死で探している人間たちがいるなど、想像もしていなかったのである。自分たちの犬に値段がつくことも驚きだった。 東京の有名な佐藤犬舎に入って種犬となった石号には、交配希望が殺到した。その中に、やはり四国の山中で発見された「コロ号」という雌犬がいた。所有者だった甲府在住の医師、堀内金次は評判を聞き、交配相手は石号しかいないと心に決めた。そして熱心に頼み込み、交配を実現させたのである。この堀内の慧眼と情熱が、柴犬の未来を開いた。 2頭の間から生まれた「アカ号」は、昭和14年(1939)の第8回本部展で日本犬保存会賞を受賞。両親の短所を補い、長所を受け継いだ近来の傑作だと賞賛された。ここから柴犬の系統繁殖が本格化した。 戦争前の本部展で、小型の代表に選ばれた犬は7頭である。そのうち両親がはっきりしている犬は、アカ号を含めて3頭だけだった。当時はまだ山から引き出してきた犬がほとんどで、犬の素性など誰にもわからなかったのだ。それがはっきりした時に、柴犬の歴史と物語が始まったのである。 ■戦争に翻弄される中で守り抜かれた血統 アカ号が華々しくデビューした昭和14年(1939)は、日中戦争2年目。「贅沢は敵だ」という有名な標語が登場する。前年には国家総動員令が施行され、節米運動も始まった。犬は贅沢品とされ、飼育に逆風が吹きはじめていた。 やがて飼料が不足し、飼い主が出征することも増え、犬の供出運動が吹き荒れ……天然記念物であるはずの日本犬にも撲殺の運命が降りかかってくる。やっと系統繁殖が成功しつつあった柴犬の先行きも、真っ暗になった。飼育者は、供出するか山に放つか隠れて飼育するかという、苦渋の選択を迫られた。 そんな苦しい戦争が終わった時、関係者はただただ、犬が生き残っていることを祈るのみだった。しかし、そんな過酷な時代を何とか生き抜いた柴犬がいた。アカ号の血を受け継いだ「紅子号」から、昭和18年(1943)、戦後の柴犬隆盛を担うことになる「中号」が生まれていたのだ。 犬は供出して撲殺という時代に、最後まで手放さず血をつないだ飼い主、坂口仁の名前をここに記しておきたい。坂口は足が悪かったから、おそらく出征できなかっただろう。おまけに犬まで飼っていたのだから、周囲から非難されて大変だっだと思われる。 やがて昭和30年代に入ると、日本人の生活も安定してきた。通産省(当時)が経済白書に「もはや戦後ではない」と記したのは、昭和31年(1956)のことである。犬の最大の敵だったフィラリアの予防体制も整った。 時代の追い風に乗って犬の飼育層が拡大する。特に、アカ号から続く血統から中号という不世出の種犬が誕生し、その子どもたちがまた優秀な種犬になるという幸運に恵まれた柴犬は、がぜん隆盛する。 さらに日本が高度成長に入ると、昔からいる親しみやすい風貌と適度な価格で、柴犬は勢いに乗り全国に広まった。日本家屋からマンションへという、住環境の変化も乗り越えた。 柴犬の人気は高度成長と、8割が「自分は中流である」と答えた一億総中流社会の象徴であり、戦後日本の成功物語の反映である。 日本犬が軽んじられた不遇の時代を山中でひっそりと生き抜き、ようやく発見されるも戦渦に巻き込まれ、やがて平和の到来と高度成長を追い風に広まった柴犬の歴史は、日本の昭和史そのものと言えるだろう。 なお、石号の写真をよく見ると、表面の毛が、栗のいがのように逆立っていることがわかる。この剛毛こそ、日本犬の理想の被毛なのだ。しかし、今では「ふわふわ」「もふもふ」の手触りが好まれ、柴犬の被毛も柔らかくなっている。かつての名犬を知っている世代には、嘆きの声もある。 しかし、犬は常に人間に寄り添い、その意向に沿って生き抜いてきた。柴犬も、今ではほとんどが猟犬ではなく家庭犬である。これも時代の流れかもしれない。石号のような犬はもう現れないだろうが、その遺伝子は今も柴犬の中に生きているはずだ。
川西玲子