『ロボット・ドリームズ』はなぜ日本の観客に受け入れられたのか “熱量”の正体を分析
大衆は「人情もの」を激しく求めている?
また、生みの母に背を向けて歩き出すやくざ者の物語、『瞼の母』(1962年)などの映画化作品に代表される長谷川伸の戯曲も想起させられる。「上と下との瞼を合わせりゃ 逢わねぇやさしい昔のおっ母さんの面影が浮かんでくらぁ」と、歌謡曲で歌われた切ない心情は、まさに『ロボット・ドリームズ』の核心に繋がっているのではないか。 このような筋立ては、映画が成立する前、江戸時代の通俗文学である「戯作」の人情ものや、歌舞伎、浪曲などの大衆娯楽、伝統芸能でも見られた、古典的なテクニックが源流にある。しかし、日本においては「勧善懲悪」、「お涙頂戴」の仕組みを脱却し、善と悪とがないまぜになった、よりリアルな人間の心情を描く「近代文学」の手法が確立されていくと、戯作に代表される人情話は、低級なものと見なされるようになっていった。 『雄呂血』(1925年)のような自己犠牲的な人情話が支持された映画の世界においても、大筋ではそれと近い流れが生まれている。それは、「ネオレアリズモ」や「ヌーヴェルヴァーグ」、「アメリカン・ニューシネマ」などの海外における映画運動が影響しているところもあるのだろう。 非常に大雑把に見立てると、「モーレツからビューティフルへ」というキャッチコピーに代表される、人情や根性などの泥くささからの価値観の変遷を経て、さらに昭和から平成へと好景気の浮かれた世情へと時代が流れていくなかで、「人間を描く」などの言葉が「クリシェ(使い古された決まり文句)」だとして軽んじられたり、人情に傾き過ぎた物語が揶揄される一因となった部分もあるのではないか。 しかし近年では、「難病もの」などの感動話が若い世代に支持されたり、1950年代のすれ違い恋愛ものを現代風にアニメーション化した『君の名は。』(2016年)がブームになるなど、じつはいまだに大衆は「人情もの」を激しく求めているのではないかと思えるところがある。『君の名は。』以降、同様の青春恋愛ものが乱発されたが、じつは観客は、それのみに限らず、より広い意味での分かりやすいカタルシスを備えた「人情話」をこそ求めていたのではないか。 そのように考えれば、本作『ロボット・ドリームズ』と、そのクライマックスの高揚が、日本の観客に大きな反響があったというのは、このような人情にまつわるカタルシスに対する、潜在的な渇望が大きな理由だったのではないかと思えるのである。 無論、いままでの日本映画の積み上げがほとんどリセットされた状態で、『鶴八鶴次郎』や『晩春』のように、洗練の極みといえる境地に達した人情話と同じレベルの映画をつくるというのは難しい。今後、日本映画が「人情」への方向に流れたとき、過去に隆盛した日本映画から失われた技術や価値観の大きさに気づかされることになるのだろう。しかし、この種の趣向が活かされた現代の作品である『ロボット・ドリームズ』が登場しているように、現在の枠組みにおける成功例は、これからのクリエイターにとって大きな参考になるといえるのではないだろうか。
小野寺系(k.onodera)