数学的見地から、生物多様性の保全をはじめとする社会課題の解決へ
◇複雑な条件下では従来の数理モデルが通用しないケースも このように便利な個体群動態モデルですが、どんな場合でも既存の方程式が成立するわけではありません。 注意しなければならないのが、生物種が生態系の中で占める位置を指す「ニッチ(生態的地位)」。動物であれば食物や生息場所、植物であれば太陽光や根を伸ばす土壌など、あらゆる生物には生息するために欠かせない環境があります。異なる生物種のニッチが一致したとき、お互いの種の存続のために競争や捕食・被食といった相互作用が生まれるため、長期間共存することは難しくなります。 人間が手を加えて、生物群の増殖率や空間移動率といった要因をコントロールすることはできますが、ニッチそのものを操作することは容易にはできません。特に、競争力の強い生物種が同じニッチに存在する場合は、他の要因にかかわらず結果が決まってしまうことがあります。こうした知見は、個体群動態モデルにさまざまなパラメーター(変数)を当てはめ、結果を分析する中で浮かび上がってきたものです。 令和5(2023)年3月に閣議決定された「生物多様性国家戦略2023-2030」では、多様な生物のニッチを守る方策の一つとして、「緑の回廊」の管理が掲げられました。これは人間の社会活動によって分断された生物の生息地間をつなぎ、主に動物の移動を可能にすることで、生物多様性を確保しようとする試みです。 回廊で繋がれた複雑なネットワーク状の生息域を行き来する生物の様子を探るためには、新たな個体群動態モデルを編み出さなくてはなりません。こうした社会変化を捉えながら、数理生物学の分野では日進月歩の発展が続いています。
◇他分野連携とAIの利活用で、高精度の解析を目指す 数学には、大きく分けて純粋数学と応用数学の2つがあります。前者は、代数学・幾何学・解析学などに代表される、抽象的な数学の概念そのものを研究対象とする学問。後者は、数学理論を自然科学や社会科学、産業の分野に応用することを目的に発展してきた学問を指します。海外では両者が並列に考えられることが多い一方、日本ではどちらかというと純粋数学がより高次な学問として捉えられてきました。 しかし、近年では数学の知見をさまざまな分野の発展に生かそうとする動きが進んでいます。平成18(2006)年5月に文部科学省が発行した報告書「忘れられた科学 ― 数学」では、国内の数学研究の状況の厳しさを指摘するとともに、分野融合的な取り組みへの熱い期待が寄せられました。数学という学問を発展させることも大切ですが、これからは「数学的知見をいかに社会に還元していくか」が数学研究の鍵となることでしょう。 先に挙げた生物多様性の保全以外にも、活用の道は多く開かれています。医療分野における具体例を見てみましょう。 人体には、内部環境を一定の状態に保つ「恒常性」という機能が備わっています。例えば、血糖値は食後に上昇しますが、健康な人であればやがて下がり、一定の値になります。ところが、血糖を正常な範囲に保つインスリンが作用せず、血糖値が異常に高くなると、糖尿病と診断されます。このように、恒常性が崩れると疾病にかかりやすくなるのですが、その詳しいメカニズムは未だ判明していません。解明の糸口として期待されるのが、数理モデルを活用した研究です。実際の患者からデータを収集するとなると大変な手間と時間がかかりますが、数理モデルを使用すれば患者に負荷をかけることなく短時間で膨大な解析が可能になります。応用が進めば、さまざまな疾病予防に役立てられるはずです。 さらに、今後注目していきたいのがAIの利活用です。例えば、生物群が生息地においてどのように勢力を拡大、あるいは縮小していくかを実際に計測することは容易ではありません。しかし、AIを使えばさまざまなパラメータの値を推定し、個体群動態モデルに反映することができます。AI技術が進歩すれば、いずれは数学の難問が解き明かされる日も来るかもしれません。 数理モデルを使ってさまざまな現象をシミュレーションできるようになったとはいえ、複雑な事象の解析には、まだまだ数学は力不足であり、今後も発展していかねばなりません。人にせよAIにせよ、画期的なブレイクスルーを生み出してくれることを願っています。
中村 健一(明治大学 研究・知財戦略機構 特任教授)