イラン 地域大国の強さともろさ
イスラム革命以来、イスラエルと敵対関係にあるイランが、自国領土内からイスラエルを初めてミサイルや無人機(ドローン)で攻撃した。これは私に個人的体験を含めて、33年前の湾岸戦争を思い出させた。あの時はイランではなく、イラクがイスラエルをミサイル攻撃した。 【写真】イスラエルに落下したイランの弾道ミサイル 当時(1991年2月)、第1次湾岸危機のさなかで、私はサウジアラビア東部ペルシャ湾岸の都市ダーランに滞在していた。 前年8月のイラク軍のクウェート侵攻で始まった危機は半年となり、米英などの先進国に、途上国、アラブ諸国などが加わった多国籍軍の地上部隊が、サウジから進攻に踏み切るのが秒読みに入っていた。 すでに多国籍軍の空と海からの攻撃は始まっていて、クウェートが解放されれば、私はレンタカーでクウェート入りする算段をつけていた。 そんな緊迫した折、イラクのフセイン大統領はイスラエルとサウジに向けて、それぞれ30発以上のスカッド・ミサイルを発射した。何発かは米軍のパトリオット・ミサイルが迎撃したが、一部は着弾した。もっともイスラエルに与えた被害は軽微だった。 私がいたダーランにも飛来し、滞在していたホテルからさほど遠くないところに着弾。大きな爆発音が響き、あわてて浴槽内に身をひそめた。 当時の迎撃精度は10%程度と言われた。スカッド・ミサイルの方も精度は低かった。今回、イスラエル軍は米軍などの支援を含め99%を迎撃したという。33年間の軍事技術の進歩だ。 フセイン氏のミサイル攻撃は窮余の一策だった。「イスラエルと対峙(たいじ)できるのは自分だけ」と示し、もしイスラエルが空爆などで報復すれば、「イスラエルがアラブの国を攻撃した」と喧伝(けんでん)し、先進国とアラブ諸国を対立させ、うまくすれば多国籍軍を空中分解させることができる。 対サウジ攻撃には、「聖地を抱えながら、米英軍を駐留させた堕落したサウジ王家への懲罰」の意味が込められていた。サウジ国内のイスラム原理主義者などの王政に対する造反を期待したのだ。 米国のブッシュ大統領(父)は、イスラエルのシャミル首相に「報復攻撃はしないでほしい。貴国の代わりに我々が報復する」と説得。イスラエルは自制した。 約1週間後の2月24日、多国籍軍は地上進攻を開始し、イラク軍を掃討してクウェートを解放した。私もダーランから砂漠の中を一直線に続く約500キロの道のりを、米車を飛ばしてクウェート入りした。 そこで目にしたのは、沿道に累々と折り重なるイラクの戦車や車両、大砲の残骸だった。行けども行けども残骸は絶えることがなく、イラク国境まで続いていた。地上戦でイラク軍は雪崩を打ってクウェートから撤退したが、そこを空爆でたたかれたのだった。 この湾岸戦争の意味を中東地域のパワーバランスから見るならば、イラクからイランへの地域パワーの交代と位置づけることができる。 イランはパーレビ王政時代、米国との緊密な関係をバックに中東随一の国力を誇ったが、79年のイスラム革命による混乱で国力を大きく落とした。これに代わって台頭したのがイラクだった。 70年代末に実権を握った非宗教的な世俗指導のフセイン氏は国力増強に努め、80年にはイランに軍事侵攻し、イラン・イラク戦争が始まった。イスラム革命の波及を懸念する湾岸諸国、米欧、旧ソ連はイラクを全面的に支援し、国際的に孤立したイランは、8年の戦争の末にイラクの停戦案に応じた。事実上のイラクの勝利だった。 イラクは地域パワーとしての立場を確立したかに見えた。しかし傲慢になったフセイン氏は終戦から2年後に湾岸危機を起こし、アラブの盟主になる夢を自ら放棄した。 湾岸戦争で米国は世界無二の超大国となったが、陰の勝者はイランだったと言って間違いないだろう。イランは革命後、東のアフガニスタン、西のイラクに挟まれる形で安全保障上の脅威にさらされてきた。このうち西方の脅威が事実上排除されたのだ。 東方はどうだったか。イランの革命直前、ソ連軍がアフガンに侵攻し、イスラム・ゲリラとの間で内戦になった。 大量のアフガン難民や麻薬が流入するなど、イランは国境を脅かされ続けた。さらにソ連軍の撤退後はイスラム主義組織のタリバンが政権を握り、イランと敵対した。 しかし2001年、米同時多発テロでタリバン政権は崩壊する。03年には米英主導のイラク戦争で、フセイン政権に最後の一撃が加えられた。これによりイランは東西の圧力から解放され、安全保障空間を大きく広げた。 米国を不倶戴天(ふぐたいてん)の敵とするイランだが、結果的に米国が二つの脅威を除去した。英国のシンクタンク、王立国際問題研究所が「イランは中東から西アジアにまたがる強力な地域パワーとして登場した」との報告書を出したのはこの数年後である。 現在、イランは自国が国教とするイスラム教のシーア派のネットワークを中東地域に構築し、それを通じて影響力を投射している。革命の輸出でもあり、勢力圏が飛び石伝いに広がっている。 レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラ、イラクやシリア国内のシーア派組織、イエメンのフーシ派、パレスチナ自治区ガザ地区のイスラム組織ハマス。 ちなみにハマスだけはスンニ派で、イランと関係をもつことに派内で反対もあった。パレスチナ問題は民族自決の運動であり、宗教を過度に政治化するイランのシーア派とはなじまなかったからだ。しかし現在は「反イスラエル」で関係を深めている。 これら親イランの武装組織が果たしている役割は大きい。イランは経済的、軍事的支援を行っているが、イランの完全なコントロール下にあるわけではない。 しかしイランの戦略的な目的に沿ったところで有機的に動いているのも事実だ。イランのイスラエルへの直接攻撃では、ヒズボラもミサイル攻撃で連携した。 イランがイスラエル攻撃に踏み切ったのには33年前のフセイン氏と共通する狙いもあったのではないか。「イスラエルと真に対峙しているのは我々だ」というアラブとイスラム世界に向けたメッセージである。革命から45年。米国と並ぶ仇敵(きゅうてき)への初めてのミサイル攻撃は(99%迎撃されたとしても)、イランの革命派にとって祝福すべきことだった。 80年代前半にテヘラン特派員をし、90年代にも何度かイランに入って、この国を見つづけてきた。ペルシャ文明を基層に、上部構造にイスラム文明を持つこの国の文化的厚みと豊かさ、知的洗練度は中東でも一頭地を抜いている。 穏健派のハタミ政権時代、イランは「文明の対話」を呼びかけて多くの国の賛同を得た。これを受け、国連は01年を「文明の対話年」として、さまざまなイベントを行った。 「文明の対話」の提案にあたっては、イランの知識人が多く政権にアドバイザーでかかわった。本来、こうした知的構想力をもった国である。 いま体制の革命派と一般の人々の間の距離は極めて大きいものがある。将来を見通せない若者の外国流出は続く。国内にとどまっている人々も、超インフレ、下落が止まらない通貨、イスラム規範の押しつけ、体制批判への締め付けなどに不満は大きい。 特に原油収入のかなりの部分が親イランの武装組織に流れていることに「なぜ外国の組織のためにイラン国民が貧しい生活を強いられるのだ」と批判は根強い。 先月行われた国会議員選挙では、投票率は内務省発表で41%。過去12回の国会議員選挙で最も低かった。 一昨年秋、スカーフをしなかったとの理由で拘束された女性が死亡したのを機に、数カ月にわたって全国で抗議行動が起きた。何かあると体制への不満が枯れ草に火が付くように、噴出する状況だ。 パーレビ王政時代に米国と密着しすぎた反省から、イランは大国とは一定の距離を保ってきた。米国はもちろん、ロシア、中国とも、経済的利益を追求しながらもバランスをとってきた。本質的にプラグマティックな外交だった。 しかし2年前のウクライナ戦争が勃発したころから、急速にロシアに傾斜した。ドローンやミサイルを提供し、戦闘機などの先端兵器を購入するなど、特に軍事面での提携が顕著だ。革命以来のバランス外交を崩してしまった。 米欧などと折り合いをつけて行こうとする現実派を押しのけて、革命イデオロギー優先の保守強硬派の影響力が政権内で強まっている。米国やイスラエルに対抗して軍備を固め、核開発の促進を一層図ろうとしている。 ただウクライナを侵略したロシアとの、軍事分野が突出した依存関係は、中長期的にイランの外交の幅を狭める。国内的にも、軍備増強はいまでさえ大きい軍事支出を増大させ、民生部門の投資を圧迫するだろう。 体制と世論のますますの乖離(かいり)は、地域パワーとしてのもろさを示している。【客員編集委員・西川恵】