『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』に貫徹された破滅的な試み “上下巻”だから描けたもの
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』とともに思い出す『ドグラ・マグラ』
「信頼できない語り手」によって成立した古今東西の名作は数多くあれど、筆者はいま、夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』(1935年刊)を思い出さずにいられない。一度読んだらトラウマ級に忘れられなくなるこの小説の、ラストの一節を少しばかり引用しよう。 “私とソックリの顔が、頭髪と鬚を蓬々(ぼうぼう)とさして凹んだ瞳をギラギラと輝やかしながら眼の前の暗(やみ)の中に浮き出した。そうして私と顔を合わせると、忽(たちまち)ち朱(あか)い大きな口を開いて、カラカラと笑った……が…… 「……アッ……呉青秀……」 と私が叫ぶ間もなく、掻き消すように見えなくなってしまった。 ……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………。” 夢野久作『ドグラ・マグラ』より 夢野久作がラストで書く「忽ち朱い大きな口を開いて、カラカラと笑った」のはジョーカーそのものだ。『ドグラ・マグラ』発表の10年ほど前から書き始めた小説『狂人の解放治療』は、やがて『ドグラ・マグラ』として結実していった。「……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………」は、ジョーカーの口ずさむ「ノック、ノック…………」みたいなものだろう。九州帝国大学医学部精神病科の独房に閉じ込められた一人称「わたし」は、すでにアーサー・フレックそのものと言ってよい。つまりジョーカーはいつでもどこでもいて、誰でもない、ということ。『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のラストシーンでアーサーは、若い収容患者によって刺殺される。絶命する彼の背後、フォーカスの当たっていないボケあしの画面奥で、刺殺犯の若者がそのナイフで自分の唇を裂いている様子がそれとなく判別できる。さしずめ元祖を殺害した手柄をもって2代目でも名乗るつもりか。それほどジョーカーとはアトランダムな存在ということになる。 先ほど音楽は危険だと述べた。それで思い出さずにいられない悲劇がある。1980年12月8日の夜、ジョン・レノンが自宅前でマーク・チャップマンによって射殺された。その後の取材によって、チャップマンの動機は「有名になりたかった」ということになっている。しかし、事件直後に日本のロック雑誌『ロッキング・オン』に追悼文を寄稿した同誌の創刊メンバーのひとり、松村雄策(1951~2022)の文章が、44年も経過したいまも、筆者の頭にこびりついている。手元に実文がないため、記憶を頼りに述べるが、松村は、ジョン・レノンが死の3週間前にリリースしたアルバム『ダブル・ファンタジー』(1980年)の1曲目「スターティング・オーバー」の歌詞を問題にした。 この楽曲の歌い出しの一節「Our life together is so precious together. We have grown, we have grown.」(共に過ごす日々はかけがえのないもので、僕らは一緒に成長した)の「we have grown」の完了形に犯人は憤ったのではないか、と私見を述べる。「we have grown」ではなく「we are growing」と現在進行形で歌われていれば、事態は変わっていたかもしれない、と。松村の評言の是非は筆者にはとても判断しかねるが、事実として、犯人は犯行後も現場から逃走せず、レノンにサインしてもらった『ダブル・ファンタジー』のアルバムジャケットを投げ捨て、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道を歩き回ったりしていたという。大好きなアーティストのニューアルバムを投げ捨てた心情とは、いかなるものだったか? 『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のラストシーンでアーサー・フレックを刺殺した青年患者の心理が、もしこれに当てはまるとしたら? 裁判での陳述に怒った青年がアーサーを成敗したのなら、当初より望んできた「実人生よりも偉大な死を」彼は実現できなかったことになる。しかしアーサーは知っている。ジョーカーが扇動した「ホワイト・ルーム」的カタルシスも、バットマン的自警団主義も、どちらも世界には不要なものであることを。 1938年の『汚れた顔の天使』では、平然とふるまい、威厳さえ漂わせる死刑囚(ジェイムズ・キャグニー)が、少年たちの感化を恐れた牧師(パット・オブライエン)の極秘の説得を拒みつつも、死刑執行される瞬間には命乞いして見せて少年たちを幻滅させる。牧師は死刑囚の人格を看破していたのだ。アーサー・フレックは牧師のような秘密の理解者をついに持つことはなかった。彼を侮辱する者か、過度に崇拝する者かのどちらかだった。だからこそ精神科病棟の廊下における彼の死は、誰にも看取られることがないながらも、責任の果ての辞世として、孤高さをたたえている。 ©︎ & TM DC ©︎ 2024 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved. IMAX(R) is a registered trademark of IMAX Corporation. Dolby Cinema is a registered trademark of Dolby Laboratories
荻野洋一