早大出身者はなぜ母校の「難関校化」を危惧したのか――「東大とは異なる価値」を追求してきた歴史を振り返る
高田早苗の入試有害論
彼ら卒業生の要求は、そう突飛なものではなかった。というのは、入試有害論は創設者の1人である高田早苗の持論でもあったからである。明治40年代初頭、高田は上級学校への「入学」試験が、受験生をふるい落とす「拒絶」試験と化している現状を強く批判した。厳しい入学試験が学校教育を受験のための「詰込み教育」に変えてしまい、人物を育てるための教育を妨害しているというのである。 高田は「入学試験などを施さず、自然の径路に依つて、学生をして学問を継続せしむるだけの設備が整ふやうになる」ことが日本の学校教育を健全化する道だと訴えた(「現代学制の欠点」『早稲田学報』第152号、「教旨と風紀」同第176号)。 この理屈からすると、無試験入学こそが「正しき道」ということになる。いうまでもなく「拒絶」試験の最たるものは、旧制高校の入試である。なぜ高校に多くの受験生が殺到しふるい落とされるのかというと、その先に帝国大学があるからである。東大を頂点とするエリート校は、門戸を閉ざすことによってエリートたり得ている。ならば早稲田はその逆を行く。早稲田の入りやすさは、それ自体が高田の教育論に基づく、反・東大的な営為といえなくもないのである。
自由と放埒の学園
早稲田は、学園が持つ娯楽性によっても「民衆的」な存在であった。国民的な人気を博した早慶戦などはその好例といえるが、大学経営や学生生活全体にも多分に娯楽的なところがある。早稲田・慶應・明治・日大・中央・法政・東京帝大・日本女子大の校風と人物を紹介した1912年刊の平元兵吾『八大学と秀才』は、早稲田を次のように評した。 「私立大学中早稲田程不真面目らしく見られる学校はなからう、或は徒党を組み、或は隊伍を成して、所謂弥次連を組織するの妙を得てをるのも独り早稲田に見る而已(のみ)、彼の野球戦又は諸種の歓迎会に望んで見ても事実明かである、聞く所によれば、元来早稲田には学校に籍だけ置いて遊んでをる者が二千余人もあると云ふことだ」。 早稲田の学生の粗暴さやだらしなさを批判しているようだが、決してそうではない。著者の平元はこう続ける。「不真目らしくして、尚且つ今日の大発展を成し、破格の栄誉を担つたと云ふのも、亦決して他の私立大学中に見る事の出来ない例である」。 平元は、早稲田の不真面目さは大隈重信の個性に由来している、と考えた。法律学校に起源を持つほかの私学とは違い、早稲田の法科は不調であった。ところが大隈は私財を投じて「誇大的」に学校の規模を拡大し、輩下の者も追随して文科、商科、理工科と増設を続けた。スポーツにも力を入れ、巨費を投じて野球部を渡米させた。いちいち大げさなやり方で世間の注目を集めるので、内実はともかくやがて「早稲田は偉い」という観念が生まれたと、平元は推測する。