私、ヤングケアラーだったんでしょうか… 中学生の時に父が若年性認知症を発症、高校生の時はトイレに付き添えるよう毎晩、布団を並べた
若年性認知症になった母と、その娘の互いを思いやる心模様を描いた企画「私があなたを想(おも)うとき」を読み、広島県内の30代女性は自身の過去を思い起こしたという。女性の亡き父も若年性認知症だった。「私、今でいうヤングケアラーだったんでしょうか」。一家の大黒柱が病に倒れ、どんな苦悩に直面したか。体験を寄せてくれた。 【図解】若年性認知症とは 「お父さんね、仕事辞めるから」。母から告げられた時、女性はまだ中学生だった。父は40代。母は父の異変に気付いていたようだ。運転中に車をぶつけたり、ごみ捨て場が分からずに路上に放置してきたり。職場でもミスを重ねるようになり、認知症の診断を受けた後、会社に退職を迫られたらしかった。 当時は両親と弟の4人暮らし。子煩悩で優しい父が変わっていく。直視するのはつらかった。症状の進行は早く、食事も排せつも介助が要るように。母がパートに出ている日中は、祖母が通いで介護を担った。 高校生になると、進路のことなど母に相談したいことが続いた。でも介護と仕事に必死な母を前に、女性は「私のことどころじゃないな」と思うようになった。女性はトイレに付き添えるよう父と毎晩、布団を並べた。眠気と闘う毎日。頭痛薬が手放せなかった。 きっと理解してもらえないと思うと、友人にも家の悩みを話せなかった。「感情にふたをしてしまう。それが癖になったみたいで、今でも抜けません」と明かす。 「お父さん、かわいそう」。家族はみんな疲れていたはずなのに、施設への入所という選択は考えたこともなかった。「絶対に家で面倒みようっていう空気でした」 そんな中高生時代、一家の支えになったのは自宅に出入りする訪問看護師だった。「お帰り。学校どうだった?」。何てことない会話にほっとした。自分を見てくれている気がして心強かった。「こんなふうに誰かの役に立ちたい」。女性は大学で医療や福祉の勉強をしたいと願うようになった。 高校3年の三者面談で初めて母へ明かした。母は家計の苦しさを理由に反対したが、奨学金とバイト代で学費や生活費を賄うことを条件に押し切った。在学中、父は他界した。 女性は今、福祉の専門職として働く。かつて自分がそうだったように、介護中の家庭の子どもにとって、手伝うことは「当たり前の日常」だ。自分がヤングケアラーであるとの自覚もない。「自ら助けを求める子どもなど、まずいない。親や学校の先生、医療者たち周りの大人が話を聞いてあげるだけでも違う」。経験者として伝えたい思いだ。