年棒700万円から手取り11万7千円の記者に大転身…「元プロ野球選手記者」が初めて書いた"スクープ記事"
■人生の先輩「いまから楽な道を選んでどうする」 1974年の暮れ、広野は名古屋の伏見にある老舗料亭「鯛めし楼」を訪れた。ビジネス街にひっそりと佇み、舌の肥えた名古屋人へ伊勢湾の真鯛をふるまう名店である。 「慶應大の2年先輩で、慶應のゴルフ部のキャプテンだった鈴木晴視さんが、そこを経営していたんです。ジャイアンツ時代に知り合い、名古屋に行った際は、必ずお店を訪れていました。名古屋の財界のことをよく教えてくれる人で、『困ったらいつでも来い』と。信頼していた人でしたから、彼に進路について相談に行ったわけです」 開店前の客がいない店内で、鈴木は鯛めしをふるまいながら広野の進路に助言した。 「アメリカに行ったらカネはいくらかかるんだ?」 「500万円くらいかかります」 「お前、そんなにかけて行く価値はあるのか。アホか。中日からも就職先を提示されているんだろう?」 「僕はマスコミにはあんまり行きたくないんです。やっぱり現場で野球を勉強したいんです」 「なるほど。ところで、お前、喋る(解説者)のと書く(新聞記者)のはどっちが嫌なんだ」 「そりゃあ、書くのが嫌ですよ。原稿なんて書いたことないし、ありえないです」 「わかった。じゃあ、中日新聞社に世話になれ。お前、まだ31だろ? 今から楽な道を選んでどうする。人生これからなんだから苦しいほうを選べ」 ■第二の人生は、手取り11万7000円 代打としてなかなか結果が出なかったジャイアンツ時代に、励まし続けてくれた鈴木の言葉である。親以上に信頼を寄せていた彼の言葉を広野は信じ、聞き入れた。 「正直、参ったなと思いましたよ。ただ、考えてみれば鈴木さんの言う通り、楽をするのはまだ早いなと。社員であれば定年まで職は安定しますし。ただ、記者の初任給が手取りで11万7000円だったため、家内と相談してかなり生活は切り詰めましたね」 かくして前年までプロ野球選手だった男は、バットとグローブをペンと原稿用紙に持ち替えて、1975年から中日新聞の新入社員として第二の人生を歩み始めたのだ。広野のキャリアを生かせるようにと、所属は中日スポーツになった。