二度敵対した秀吉からも「期待」された佐々成政
■秀吉から「期待」され肥後国を任された佐々成政 佐々成政(さっさなりまさ)は織田家の有力な武将であったものの、秀吉の陰謀により肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)の責任を取らされる形で切腹させられた、悲運の武将というイメージが強いと思われます。 しかし、成政は本能寺の変後に、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは柴田勝家(しばたかついえ)側として、小牧長久手の戦いでは織田信雄(おのだのぶかつ)・家康側として、秀吉と二度も対立しているものの死を免れています。逆に、九州征伐での軍功が評価されて、難治とされる肥後一国を任されるなど大抜擢を受けています。 その後の切腹の原因は、秀吉の「期待」に応えきれなかった事にあったと思われます。 ■「期待」とは? 「期待」とは辞書などによると「あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。」とされています。 似た言葉として「希望」があり、望みを掛ける点では同じですが、「期待」には期待する相手に対して見返りを求める側面があります。そのため、「期待」の逆効果として、相手にプレッシャーや焦りを与える点にも違いがあります。 また、見返りが得られない事を指す「期待を裏切る」という表現があるのも大きな違いです。成政は秀吉から、その能力を評価され、機会を与えられた代償として、大きな見返りも求められていたようです。 ■佐々家の事績 佐々家は六角(ろっかく)家の庶流を出自とするとも言われますが、藤原を本性とする説もあり定かではありません。成政の父成宗(なりむね)が斯波(しば)家または織田家の家臣となり、父と兄たちの死によって家督を継承したことで信長に使えるようになります。 信長の黒母衣衆(くろほろしゅう)の筆頭となると、観音寺城の戦いや姉川の戦いなど、織田家の主要な戦に参加し活躍しています。 1575年に柴田勝家が北陸方面の攻略を任されると、前田利家(まえだとしいえ)と共に与力の一人として配され、府中三人衆と呼ばれるようになります。 上杉謙信(うえすぎけんしん)が死去すると越中国を平定し、神保家を含めた越中衆の指揮を任されます。そして、神保長住が失脚すると越中国の守護のような地位を得ます。 1582年に本能寺の変で信長が斃れると、織田家中での主導権争いが激化していきます。しかし、成政は上杉家の反転攻勢により身動きが取れない中で、佐々家の存続のため難しい「判断」を求められていきます。