「こんな時地震が…」が現実に 震災発生前後を撮影、体験を教訓に
東日本大震災の発生時、三重県伊勢市の森田芳三さん(85)は、宮城県気仙沼市の唐桑半島にいた。直前の平穏な海、直後の道路の亀裂や落ちたかわらの散乱などを撮影していた。高台にいて津波の難を逃れた森田さんは、南海トラフ地震に備え、「とにかく早く高い所へ逃げる」を肝に銘じている。 【写真】手すりが外れた道。地震発生4分後の日時が記録されていた=2011年3月11日午後2時50分、宮城県気仙沼市、森田芳三さん撮影 森田さんと会社時代の友人は2011年3月10日、宮城県や岩手県の景勝地や温泉をめぐる旅行会社のツアーに出発した。 2日目の11日、ツアーの四十数人は遅い昼食後、気仙沼市の唐桑半島にある陸中海岸国立公園(現・三陸復興国立公園)の半造を訪れた。奇岩が立ち並ぶ景色を見下ろした。遠くまで見渡せる太平洋は白っぽく静かだった。 「こんな時、地震、津波が起きたらえらいこっちゃな」 森田さんと友人はこんな冗談交じりの会話を交わしたという。 海に向かってカメラのシャッターを押した4分後だった。午後2時46分。突然ぐらっときた。経験のない大きな揺れに立っていられずその場に座り込んだ。 「危ない、木につかまって」。女性添乗員の叫ぶような声が聞こえた。森田さんは近くの杉の木にしがみついた。友人も含めて周りの人たちがどうしているか見る余裕はなかった。揺れはなかなか収まらず、何度も腕時計を見た。 気仙沼市内の震度は5強~6弱だった。揺れが収まると、森田さんらはバスが止まる駐車場に急いだ。歩道の手すりは外れて転がっていた。建物の屋根瓦が落ちて散乱していた。道路には亀裂が走っていた。午後2時49分。気象庁が津波警報(大津波)を発表したが、地震の爪痕にカメラを向けていた森田さんは知らなかった。 バスは運転士の判断で高台に移動した。森田さんらは止まったバスの中で18時間ほど缶詰になった。旅行会社からパンやおにぎりが少量ずつ配られた。 テレビは津波が家や車を押し流す様子を映していた。帰路に使う予定だった仙台空港は浸水し壊滅的な被害を受けていた。携帯電話は夜7時ごろ1回だけつながり家族に無事を伝えるとすぐ切れた。やがてバッテリーもなくなった。 「次に何が起きるのかと思うと不安でいっぱいだった。生きて帰れるとは思えなかった」 翌朝、バスは寸断された道路を避けて市内を抜け、新潟空港のある新潟市内に向かった。森田さんらツアー客は全員無事だった。 気仙沼市によると、東日本大震災による市内での直接死・関連死・行方不明者は計1434人に上った。多くは津波が原因という。 森田さんは東日本大震災の体験を踏まえて言う。「南海トラフ地震はいつ来てもおかしくないと聞いている。地震も津波も怖い。とにかく一刻も早く高いところに逃げることが大事だと思っています」(高田誠)
朝日新聞社