大河ドラマ『光る君へ』で存在感を放つ藤原詮子 一条帝の母、道長の姉として時代を動かした女性の一生とは?
大河ドラマ『光る君へ』で物語のカギを握る女性の一人に、藤原道長の姉である詮子(演:吉田羊)がいる。家のために入内、親王を出産するも、父兄の計略に巻き込まれて円融帝への想いは報われなかった。以降、父兄への恨みを胸に抱きながら、我が子の即位とともに皇太后となった。今回は、そんな詮子の生涯を辿る。 ■家のために入内し親王を出産する快挙 藤原詮子(せんし)は藤原兼家の次女で、道隆、道兼、道長と同じく母は時姫でした。詮子は円融天皇の女御として入内し、懐仁(やすひと)親王を産みましたが、中宮の座には、関白である藤原頼忠の娘・遵子(じゅんし)が就きました。そのことへの抗議だったのでしょう、兼家・詮子の父娘は、兼家の邸宅・東三条第に籠って、帝のお召しにも応じないサボタージュを敢行しています。 円融天皇が詮子よりも遵子を寵愛していたというよりも、兼家の力が増長することを警戒していたというのが正しいのかもしれません。しかし遵子は子を生むことなく、円融天皇は退位し、詮子が産んだ懐仁親王が皇太子になりました。円融天皇は自ら進んで退位することで、自分の血を分けた子が皇位を継承する道を選んだのです。その点では、けっして良好な関係ではなかった、円融天皇と兼家の思惑は一致していたのでした。 その後、わずか2年間の在位で花山天皇が退位し(兼家・道兼を中心とする陰謀とされます)、皇太子・懐仁親王が即位しました。一条天皇です。一条天皇はわずか7歳で、摂政には兼家が就きました。 平安時代は幼帝が即位することが多い時代でした。幼帝は母后とともに内裏にいて、その膝下で養育されました。一方で生前退位した上皇は権力の二重化を避けるために内裏から別の所に移り、そのような環境が母后の発言力を高めたのです。一条天皇についても、父円融上皇が即位後5年で崩御したこともあり(その前年には兼家も亡くなっていました。ちなみに、円融帝は帝の父として政治に積極的に関わる意志があったと言われています)母である藤原詮子の発言権は増大したのでした。 ■道長の出世街道を拓いた姉の力 ところで、詮子は弟の道長に目をかけて、可愛がっていました。このことが道長の命運を左右します。兄道隆・道兼の早世の後、道長は甥の伊周(これちか)と覇権をめぐって対立します。そこで伊周は自滅のような事件を起こします。弟隆家とともに、詳細は省きますが、女性をめぐるトラブルから花山院を矢で射かける暴挙に出るのです。 道隆の死後、道長が氏の長者(藤原氏のトップ)になり、官職でも先を越されたことによる自暴自棄が要因とされます。これは道長を推挙する母詮子の一条天皇への説得が物を言ったとされます。『大鏡』などの伝えるところでは、詮子は弟の道長を可愛がり、愛する定子のこともあり伊周を考えて渋る一条天皇を寝室まで追いかけて、そこに籠城して強引に道長を推挙させたというのです。 道長の人生を切り開くうえで、姉詮子の存在は実に大きいものでした。道長の第2の妻というべき明子も、詮子が引き取っていたのを道長が通うようになったのでした。 詮子は史上初の女院として、正暦2年(991)東三条院と号しました。詮子は長保3年(1001)に41歳で崩御しました。道長がこの姉の死を深く悼んだことは言うまでもありません。 <参考文献> 福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)
福家俊幸