中日・荒木の2000安打の礎になった井端との“アライバ”の時代
中日の荒木雅博内野手(39)が3日、ナゴヤドームで行われた楽天戦で通算2000安打を達成した。荒木は4回一死から楽天先発の美馬学の外への変化球をライト前へ“らしい”技ありのヒットで偉業を決めた。プロ野球で史上48人目。中日の生え抜き選手としては高木守道氏、谷沢健一氏、立浪和義氏に続いて4人目となった。またプロ22年目の達成は、2013年に25年目で達成した谷繁元信・前監督に次ぐ、史上2番目の最遅記録だが、過去47人中、プロ5年目までのヒット数は、荒木が15本で最少だった。 止めたバットだった。パンチショット。それも荒木の絶妙のバットコントロールのひとつ。変化球をライト前へコツンと弾き2000本目のヒットを放つと、ナゴヤドームに駆けつけた両親が歓喜してスタンドのそこら中にサインボードが出た。大歓声に荒木がヘルメットを振って答えると解説席にいた星野仙一・楽天副会長が、グラウンドに降りてきて花束を渡すというサプライズ(荒木は事前に知っていたらしいが)。星野氏は、荒木を1996年にこの世界に導いたときの監督である。 「半分泣いていましたね。ずっときつかった。ほっとしました」。荒木は感激で涙ぐんだ。 その年のドラフト1位は、福留孝介だったが、クジで外すと(近鉄が指名権を得て入団拒否)、原俊介(巨人)もクジで外し、外れ外れ1位で、荒木を指名した。元巨人の故・川上哲治氏や、広島の前田智徳氏ら名野手を輩出した名門、熊本工から、その足と肩と守備力に将来を見込んで獲得した。 だが、バッティングは非力でプロのレベルにほど遠く、練習ではゲージからボールが出なかった。3年目からはスイッチを指令されたが、それも浮上のきっかけにはならなかった。星野政権では、2軍もスパルタ指導を続けていてミスばかりでボコボコにされた荒木は、ユニホームを脱いで熊本に帰ることを考えたという。 「若い頃は、辞めたいばかりでした」 スイッチから再び右に戻した2001年のオープン戦での一打が転機になったことを荒木は2000安打の会見で口にしたが、この年から立浪和義氏が、二塁から三塁へ回ることが多くなり、スタートしたのが、荒木二塁、現在巨人コーチの井端弘和が、遊撃を守る、いわゆる“アライバ”の時代である。 荒木は、井端より2歳年下だが、井端は荒木より2年後に亜細亜大を経てドラフト5位で入団してきた 12球団トップの守備力を誇った荒木、井端の二遊間、そして、荒木、井端の1、2番コンビは、2001年から2012年まで、10年以上にわたって続いた。中日の黄金期を支え、そして、また荒木の2000本の礎を作ったといえる。 実は、筆者は、井端氏が、落合博満元GMの理不尽なリストラにあって中日を去る前に、荒木ー井端の対談を行ったことがあった。そこで荒木は、注目すべき発言をしていた。 「井端さんとのコンビがなければ、もうとっくに野球を辞めていますよ」