【日本人最大の弱点! 出口治明特別講義】ウィトゲンシュタインの哲学者らしい62年の生涯とケインズとのあつい友情
世界1200都市を訪れ、1万冊超を読破した“現代の知の巨人”、稀代の読書家として知られる出口治明APU(立命館アジア太平洋大学)前学長。世界史を背骨に日本人が最も苦手とする「哲学と宗教」の全史を初めて体系的に解説した『哲学と宗教全史』が「ビジネス書大賞2020」特別賞(ビジネス教養部門)を受賞。宮部みゆき氏が「本書を読まなくても単位を落とすことはありませんが、よりよく生きるために必要な大切なものを落とす可能性はあります」と評する本書を抜粋しながら、哲学と宗教のツボについて語ってもらおう。 【この記事の画像を見る】 ● ウィトゲンシュタインの生い立ち 「言語ゲーム」の定義づけを行ったルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の一生は、いかにも「考える人」のそれでした。 彼の父は製鉄業で成功したウィーンの大富豪、母は名のあるピアニストでした。 ブラームスやマーラーとも親交がありました。 2人の間には5人の息子と3人の娘がいました。 末っ子がウィトゲンシュタインです。 彼は幼少時、重い吃音症にかかっていました。 そのために14歳まで自宅で学習をしています。 ウィトゲンシュタイン家は、母がピアニストであったことも影響して、彫刻家のロダンや詩人のハイネなど、多くの芸術家が集まってくる家でもありました。 ただ不幸なことにウィトゲンシュタイン家の息子たちは、うつ病に悩まされる傾向があり、4人の兄のうち2人が自殺して世を去っています。 ● 哲学者の道へ ウィトゲンシュタインは長ずるに及んで機械工学に興味を示し、マンチェスター大学工学部にも留学しました。 そして数学の基礎理論を学ぶ過程で、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセル(1872-1970)に出会います。 高名な数学者で、論理学者でもあり哲学者でもあった彼は、ウィトゲンシュタインの哲学者としての資質を見抜きました。 そして彼をトリニティ・カレッジに招き、哲学を学ばせます。 1912年のことでした。 ● 『論理哲学論考』の出版とその後 第一次世界大戦が勃発すると(1914)、ウィトゲンシュタインは祖国オーストリアの志願兵となって参戦します。 彼は勇敢に戦いますが、兵士としての日々は孤独でした。 彼は何度も自殺の衝動に襲われます。 しかし彼は踏み留まって生きぬき、寸暇を惜しんで『論理哲学論考』の論理を考え続け、草稿を手がけ始めていました。 オーストリアが終戦を迎えた日、彼はイタリア軍の捕虜収容所にいました。 そして『論理哲学論考』の原稿が、捕虜収容所からバートランド・ラッセルの手元へ届きます。 1921年にこの本が出版されると、哲学界に大きな反響を呼び起こします。 しかし、ウィトゲンシュタインは一時、学界を離れます。 そして小さな恋の経験を経て、8年ほど精神的放浪の歳月を重ねた後、ケンブリッジ大学に戻り哲学教授となって、独身のまま62年の人生を閉じました(1951)。 ● ケインズとの厚い友情 連合王国の経済学者、ケインズとの厚い友情は語り草になっています。 没したウィトゲンシュタインの手元に死後に出版される『哲学探究』の原稿が残されていました。 (本原稿は、出口治明著『哲学と宗教全史』からの抜粋です)
出口治明