【大学野球】24時間指導で学生と向き合う…母校・駒大監督に就任した香田誉士史氏の使命とは?
香田監督就任までの経緯
駒大は2月1日、新監督に香田誉士史氏(52歳)の就任を発表した。駒大苫小牧高で2004年に北海道勢初の全国制覇へ導くと、05年夏には史上5校目の連覇を遂げた。06年夏は早実との決勝で延長15回引き分け再試合の末に準優勝。73年ぶりの夏3連覇を逃したとはいえ「北の名将」のインパクトは絶大だった。 同校退任後、08年から鶴見大のコーチ、部長を経て、12年に社会人野球・西部ガスのコーチを6年務め、18年に監督就任し退任する23年までに都市対抗4回、日本選手権4回の出場へと導いた。20年の都市対抗では同社5回目の出場で悲願の初勝利を挙げ、8強進出を遂げている。23年9月に西部ガスの監督退任が明らかになり、同年11月の社会人日本選手権(2回戦進出)が最後の指揮となった。
なぜ、香田氏は大学卒業以来、29年ぶりに母校・駒大のユニフォームを着ることになったのか。1本の電話が始まりだった。代田純野球部長によると、大倉孝一前監督が23年秋シーズン限りでの退任を申し出てきたという。 「大学としては(こちらから)『辞めてください』と言ったことはありません。スポーツですから負けよりも勝ったほうが良いですが、学生野球の指導者とは教育者の資質を持ち合わせていないといけない。大倉前監督は総合的に、素晴らしい指導者で、手腕が確かなものがありました。連絡があったのは10月中旬から下旬にかけて。あと1勝で東都二部優勝という状況でしたが、仮に一部二部入れ替え戦で一部へ復帰したとしても(昨春の)二部降格の責任を取って退任する、と。大学幹部に話をした上で、大倉前監督のほうから次期監督として香田監督のご推薦がありました。香田さんは西部ガスとの契約が12月末まで残っていましたので、内々で話を進め、年明けにはオープンにして、大学のほうも承認。来ていただけることはうれしく思います」
なぜ、「次の仕事」は学生野球だったのか?
二部優勝・駒大は東洋大との一部二部入れ替え戦を2勝1敗で制して、一部復帰。大倉前監督としては最高の形でバトンを渡したのだった。香田監督は西部ガス退任以降、自らの去就について、どのように考えていたのか。 「一昨年の12月の段階で、23年シーズン限りで終わらせていただくことを、西部ガスさんのほうには伝えていました。(初代監督の)杉本(泰彦、東洋大前監督)さんが6年務められ、私も6年で退き、生え抜きの指導者を据える時期ではないかと考え、昨年1年間はコーチ陣への引き継ぎも兼ねていました。辞めるのが先で、後のことは何も考えていませんでした。次のことが決まっているわけでもなく、日本選手権までは、西部ガスさんでまっとうしました。(今年以降)もし、私を求めていただける場があるとすれば、高校野球かな? と……。生きる場所は学生野球、と考えていました。こればかりは、ご縁とタイミング。母校からお話をいただいたときは、震えるような感覚でした。大倉前監督、(恩師である)太田(誠)名誉監督、中畑(清)OB会長とも話をさせていただき、私の中ではとにかくうれしい限りで、身の引き締まる思いでした。ぜひ、よろしくお願いします。頑張ります。ありがとうございます、と決断に至ったわけです」 なぜ、次の仕事は「学生野球」だったのか。 「高校野球で13年、鶴見大でもお世話になりました。(大学卒業後、すぐに高校野球の指導者に就任)社会人野球の経験がありませんでしたので、アマチュア最高峰の世界を経験した上で、そのキャリアを生かして学生野球に戻りたいと考えていました。前の自分とは違った、進化した指導ができるかな、と。それが現実となり、うれしく思います」 西部ガスでの12年は「引き出し」となった。 「会社の仕事をした上で、野球も仕事。甘えは許されない。仕事と野球にプロ意識を持って、2つ両輪を、全力で向き合うステージです。試合ではちょっとしたミスが命取り。『戦国東都』において、安易なものはない。勝てるか、負けるかは別にしても、社会人野球の経験は、大学でも生きていくと思います」