「とにかく走った記憶しかない」木更津総合の“粘りの野球”の原点とは!? OBのドラフト上位候補が振り返る“戦国千葉を制する条件”
人のために使った時間が自分に返ってくる
――五島監督と接する中で、印象に残っている言葉はありますか。 篠木 「人のために使った時間が自分に返ってくる」という話が一番印象に残っています。3年間で何回かその話を聞かせていただきました。「誰かのために野球をやったり、練習でもお互いが助け合ってやることで、後々でいい思いができる」ということを教わりました。自分中心になりすぎないようにやることを学びました。 ――木更津総合には、「スペシャルな能力があるわけではないけれども、ひたむきに努力をしてきた選手たち」がベンチ入りして、ここ一番で活躍しているイメージがあります。 篠木 木更津総合はひたむきに練習から取り組んでいるチームだと思います。メンバーだけではなく、メンバー外の選手もメンバーのために嫌がらずにサポートをしていますし、そこが木更津総合の良さだと思っています。 ――人のためにやる。その積み重ねで団結力が高まり、強さを生むのでしょうか。 篠木 それはあると思います。
センバツ準優勝の習志野にサヨナラ負けした当時の後悔
――篠木投手が高校1年、2年の時は、どんな心境で投げていましたか。 篠木 自分の投げる1球が先輩たちの夏を終わらせてしまうかもしれない。大きな責任感を伴う中での投球になりますので、夏の高校野球ならではの緊張感がありました。 ――2年夏の準決勝ではセンバツ準優勝した習志野との対戦でした。結果は延長11回にサヨナラ負けでした。 篠木 背番号1を背負っている中で、最後までマウンドを守りきれなかったことが情けなかったと思っています。 ――習志野の緻密な攻めに嫌らしさは感じていましたか? 篠木 もうちょっと考え方を変えれば、有利にできたと思いますし、結果として勝てなかったことが悔しかったですね。 ――3年時はコロナ禍で甲子園は開催されませんでした。千葉独自大会で優勝して高校野球を終えましたが、どんな思いで大会に臨みましたか。 篠木 甲子園はないですけど、やるからには勝ちたいので、投球も打撃も一生懸命やりました。「一緒にやってきた仲間と優勝したい」という思いと、「僕たちが戦う姿を後輩たちの目に焼き付けておきたい」と思う中で戦いました。 野球ができることが当たり前ではない中で独自大会を開催してもらったので、まずはそこに一番感謝の思いがありました。今も野球ができることは当たり前ではないですし、ただコロナ禍の期間はそれを特に実感した大会だと思います。 ――最後に後輩たちへメッセージをお願いします。 篠木 甲子園でも木更津総合らしい粘り強い野球を見せてくれたら嬉しいです。 <篠木 健太郎 しのぎ けんたろう> 177センチ80キロ。右投げ左打ち。群馬県明和町出身。 館林ボーイズ時代は県選抜。木更津総合では1年春からベンチ入りし、140キロ台の直球を投げ込む。1年夏では甲子園を経験。2年春からアベレージで140キロ中盤を計測し、2年夏は千葉大会準決勝敗退。2年秋も準決勝敗退。そして高校時代は主将も歴任。3年夏の独自大会では5試合で防御率0.60の回答で千葉大会優勝に貢献した。法政大進学後は1年秋からリーグ戦デビュー。4年春までリーグ通算41試合、11勝10敗、186奪三振、防御率2.16。大学2年、4年に大学日本代表にも選出されている。最速157キロの速球、フォーク、カーブ、カットボールで翻弄する総合力の高い右腕としてドラフト上位候補に挙がっている。