白血病の母が導いてくれたプロ野球での飛躍 高校1年生でドナーとなった命の絆 ヤクルトスワローズ長岡秀樹
5月12日、母の日の神宮球場でひときわ輝いた選手がいた。ヤクルト・長岡秀樹22歳。 【画像】19歳で母のドナーとなった長岡選手とその家族 この日「2番・ショート」としてスタメン出場。 前日の試合で1番・塩見が負傷し、普段とは異なる打線の並びとなったが意に介せず4打数4安打を放つ。守備では4回1アウト1、2塁、外野に抜けそうなあたりを好捕し、3塁に送球しフォースアウト、ピンチの芽を摘み相手の先制点を阻止した。 8回には終盤でリードを広げる貴重なタイムリーも放つなど、チームの勝利に貢献した。 試合後、お立ち台に上がった長岡は、 「まだありがとうと言えていないので、帰ったらちゃんとありがとうと言いたいです」 と、母への感謝の思いを述べた。 その長岡には、白血病と戦う母とのこんなストーリーがあった。
息子から母へ 命の絆
長岡: まさかとは思いました。聞いたことあるような(病気の)名前だったので。身近な自分の母がとは思いました それは高校1年生の時のこと。母・綾子さんが白血病を発症。生活は一変した。 長岡: いつも帰って(洗濯物を)出しとけば母親がやってくれてて、ご飯もあって。でそれがいなくなって入院したんで自分で洗濯して。お弁当をほかの同級生(のおかあさん)から作ってもらっていて、申し訳ないなって気持ちもありました 仲の良かった同級生3人のお母さんが事情を聞き、日替わりでお弁当を作ってくれる日々が始まった。 母の体調が良いときは、病室に顔を見に行き野球の活躍を報告した。高校1年生の秋の大会。初めてもらった背番号をユニホームに縫い付けてもらったのも病室だった。 骨髄移植が必要な中、型の一番近かった長岡自身がドナーとなった。移植しなければ母の5年生存率は3%、手術をすれば長岡も野球からしばらく離れることになる。それでも長岡は… 長岡: 自分の恐怖は全く無かったです。(母が)大丈夫かなという不安はありました 移植手術の影響で、長岡の体に激痛が走ることもあった。 長岡: 僕は(移植手術が)終わって、腰で血をいっぱい作るんで腰が痛かったり、学校へ行っても椅子に座るのがきつかったりしたんで、早退して学校も休んだりとか、しばらくはそうしていました それでも母の移植手術は無事に成功。 母の未来を息子の勇気が救った出来事だった。