長崎の魚雷工場に学校報国隊として動員された。最初は修学旅行気分で楽しかったが、夜になると皆泣いた。作業場は山中に掘られたトンネルの中。軍歌を歌い行進して毎日通った【証言 語り継ぐ戦争~学校報国隊㊤】
工場勤務は1直(午前8時~午後6時)、2直(午後6時~午前1時)、3直(午前1時~午前8時)と3交代制で24時間稼働していた。事務担当だったため、毎日午前8時半から午後5時半の勤務。部屋に出入りするときは寝ている人もいるので起こさないように静かに歩いた。山あいにある工場までは、軍歌を歌い行進して通った。 何を造る工場かも知らなかったが、後から魚雷の部品だったと知った。作業場は山中に何本も掘られたトンネルにあった。高さ3メートル、幅4メートルほどで、深さは数十メートル。総勢千人以上が働いていた。国分高女の同級生たちはトンネルの入り口付近でネジの検品をする「検査班」。私とほか2人は、工場の近くの建物にある事務所で作業した。原稿や口述の指示をカーボン紙で書き写し、指定のトンネルに届けた。 食事は大豆の搾りかすを混ぜた麦ご飯。野菜はジャガイモと黄色くなったキュウリのみそ汁くらい。食べ盛りでいつもおなかがすいていた。古里からあくまきや餅、カライモを蒸して干したものが届くと、同室で分け合って食べた。
川棚に動員された4月、第一国分基地の周辺は度々空襲を受けた。17日の空襲で叔母の家が爆撃を受け、叔母と祖母が防空壕(ごう)の中で亡くなった。家に帰るのを許されたのは母を亡くしたいとこの貴美江だけだった。 8月9日も、いつも通り事務作業をしていた。 (2024年9月14日付紙面掲載)
南日本新聞 | 鹿児島
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