【SMAP誕生前夜】ジャニー喜多川の理想をかなえた「少年隊」と「光GENJI」本当の実力
ジャニー喜多川という「楕円」
ジャニー喜多川、及び、ジャニーズ事務所の特質を考える時、私は一人の批評家を想起する。花田清輝だ。代表作『復興期の精神』は1946年、終戦の翌年に出版された。収録された、戦時中に書かれた一文が「楕円幻想――ヴィヨン」である(ヴィヨンとは中世フランスの泥棒詩人だ)。 【画像】キー局のアナウンサーも…本誌が入手した「指名候補・NGリスト」実物写真 円は中心が1点だが、楕円は中心が2点ある。ラグビーボールのようなものだ。花田清輝はこう書く。 <ひとは敬虔であることもできる。ひとは猥雑であることもできる。しかし、敬虔であると同時に、猥雑でもあることのできるのを示したのは、まさしくヴィヨンをもって嚆矢とする。> さらには<敬虔と猥雑とが、――この最も結びつきがたい二つのものが、同等の権利をもち、同時存在の状態>にあるとも言う。 これこそは、ジャニー喜多川その人ではないか! 敬虔と猥雑という相反するものが共存するように、「偉大なプロデューサー」と「おぞましい性加害者」が一人の人間の内にある。円ではない。楕円のように中心が2点ある。その相反する2点によって、さながら「引き裂かれている」ように見えるのだ。 まず、アメリカと日本という2点である。 ジャニー喜多川は1931年にアメリカ・ロサンゼルスで生まれた。本名はジョン・ヒロム・キタガワ。日本名、喜多川擴(ひろむ)。 2歳で日本に帰国、太平洋戦争時には和歌山市で空襲に遭っている。戦後、16歳で渡米し、ロサンゼルスで高校・大学へと進学した。 1952年に再来日し、アメリカ軍関係の仕事に従事する。 なるほど、彼は日本とアメリカ、「ジャニー」と「喜多川」とに引き裂かれている。 60年代初頭、米軍施設(ワシントンハイツ)に集う少年たちで野球チームを作った。そのメンバーらとミュージカル映画『ウエストサイド物語』を見に行き、衝撃を受ける。そうしてジャニーズというアイドルグループを結成したのだった。 野球、ミュージカルともアメリカが生んだドリームである。アメリカの夢を日本で実現すること、それがジャニー喜多川の生涯のミッションとなった。 ◆「たのきんトリオ」も偶然の産物だった…! 次は、ジャニーと姉のメリー喜多川という2点である。 ジャニーズ事務所は、1962年に設立された。ジャニー喜多川がタレントを育成し、メリー喜多川が経営を担当した。ジャニーがプロデュース、メリーがマネージメントという二人三脚である。これはジャニーが87歳で亡くなる2019年まで、実に57年間も続けられたのであった。 ジャニー(プロデュース)とメリー(マネージメント)、中心が2点ある「楕円」として捉えないと、ジャニーズ事務所は真に理解できない。 60年代から70年代へ、ジャニーズからフォーリーブス、郷ひろみへと進展を遂げた。が、75年に突如、郷が事務所を電撃移籍する。痛手をこうむったジャニーズ事務所は長い低迷期を迎えた。 脱したのは、80年代に入って、田原俊彦・近藤真彦・野村義男の「たのきんトリオ」が人気をはくしたからだ。 面白いのは、これがジャニー喜多川の功績のみによるものとは言えないことだろう。TBSドラマ『3年B組金八先生』の生徒役としてオーディションに受かったのが、たまたま田原・近藤・野村だったという次第である。『金八先生』というドラマがなければ、「たのきんトリオ」も存在しなかっただろう。すると、その後のシブがき隊、光GENJIへと至る1990年代のジャニーズ全盛期の風景は、実現しなかったかもしれない。 ジャニー喜多川が主導権を持つのは、メンバーの選定・育成、楽曲、ステージのプロデュースである。テレビ番組、ことにドラマへのブッキングの力は及ばない。これはメリー喜多川のマネージメントの領域だ。 アイドルとして人気が出る、知名度を獲得するにはテレビに出るしかない。ことに昭和の頃は、そうだ。しかし、そこにジャニー喜多川の力はまだ及ばない。 その時、どんなテレビ番組やドラマが存在するかは、時流やテレビ局のスタッフの主導によるものだ。事務所はブッキング、マネージメントすることしかできない。 そこで「テレビ」と「ライブステージ」という2点の中心が浮上するのである。 アメリカと日本に引き裂かれ、アメリカの夢を日本で実現すること。ジャニー喜多川の目標は、『ウエストサイド物語』のような少年たちのミュージカル劇の輝きを高いクオリティーで達成しようというものだ。歌、ダンス、演技、華麗なステージング、何より少年たちの生き生きとした輝きが、必要とされるだろう。 昭和末、1980年代の終わりに、それは達成されたように思う。 一つは、少年隊だ。 ◆ジャニー喜多川の夢の「終着点」 1981年にバックダンサーとして活動を開始し、『仮面舞踏会』でデビューするまで、実に4年間を要した。長期間の猛特訓により圧倒的なダンススキルを身につけた三人組である。ジャニー喜多川は少年隊を「最高傑作のグループ」と呼んだともいう。 今一つは、光GENJIだ。「光」と「GENJI」の世代の異なる二つのグループを合体させた。何より、ローラースケートを履いてすべり、唄う、そのスタイルが人々を驚かせた。 これはローラースケートを装着したイギリスのミュージカル『スターライト・エクスプレス』が原点だ。同劇の来日公演のキャンペーン要員として光GENJIはデビューした。デビュー曲は『STRAIGHT』である。 光GENJIはジャニーズ史上、最高の人気をはくした。1988年には『パラダイス銀河』で昭和最後のレコード大賞・大賞に輝いている。 魅せるステージ、華やかなアトラクションとしてのトップアイドル、光GENJI。他方、圧倒的なダンススキルを誇る三人組、少年隊。この二つのグループによって、ジャニー喜多川の長年の夢、ステージで輝く、踊る少年アイドル――という、その理念は達成されたのであった。 しかし、目標の達成とは、すなわち夢の終わりでもある。もはや、それ以上に行くところが見つからない。二つに引き裂かれた楕円の運動は、1点に収束して、円としてきれいに閉じてしまう。運動が止まる。 ……その時、新たなもう一つの意外な1点がひそかな胎動を始めていた。光GENJIの華やかなステージのバックでスケートボードに乗って踊る幼い男の子たち。スケートボーイズと呼ばれ、時を経て、メンバーが選出されて、やがて新たな名前が浮上することになるだろう。 ――SMAPだ。 取材・文:中森明夫
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