【菅原文太さん・没後10年】評伝著者の松田美智子氏が振り返る、文太の「飢え」が『仁義なき戦い』で弾けた時代
菅原文太さんの死から10年が過ぎた。『仁義なき戦い』などのヤクザ映画で人々を虜にした昭和の名優を、評伝『飢餓俳優 菅原文太伝』著者の松田美智子氏が振り返る。(文中敬称略) 【写真】映画「仁義なき戦い 頂上作戦」の製作発表。深作欣二監督を囲む、菅原文太や梅宮辰夫。松方弘樹も
* * * 「山守さん、弾はまだ残っとるがよぅ」 印象的な決め台詞がある映画は伝説となり、語り継がれる。 残った弾を撃つのか、撃たないのか……。 後世に残る名台詞を書いた脚本家の笠原和夫は、余韻を持たせたまま『仁義なき戦い』を完結させようとした。 だが、1973年1月の公開から時を置かず、東映は続編の製作を決定。さらにシリーズ化し、主役の広能昌三を演じた菅原文太の名前を広く世に知らしめることになった。 ここに至るまでの文太は、遍歴の人だった。 俳優人生のスタートは、スカウトされて入った新東宝で、モデル出身の容姿を見込まれたのだが、鳴かず飛ばずで、3年後には会社が倒産するという憂き目に遭う。 移籍先は松竹で、在籍した6年の間に、30本近い作品に出演している。ようやく俳優業に目覚めたのも、この頃だったが、32歳にして運命的な出会いを果たす。『血と掟』(1965年、湯浅浪男監督)で共演した安藤昇である。以後の文太は、安藤が経営する青山のレストランに通い、プライベートな相談を持ち掛けるようになった。出会いから2年後、安藤が東映の俊藤浩滋プロデューサーに引き抜かれたのをきっかけに、文太もまた、東映への移籍を決める。初めて東映京都撮影所に足を踏み入れた時、「こここそが、俺の生きる場所だと直感した」という。
ギラギラと光る目
映画会社を渡り歩いた文太が“外様”の俳優として東映に移籍したのは、34歳の秋だった。 最初の出演作は『網走番外地 吹雪の斗争』(1967年、石井輝男監督)。主演の高倉健は鶴田浩二と共に東映を代表する看板スターだが、文太より2歳上の同世代。大映の市川雷蔵、勝新太郎も高倉と同い年で、日活の石原裕次郎は文太より1歳下。同世代のスターが綺羅星の如く存在していた。 下積みが続いていた文太に焦りがなかったといえば嘘になるだろう。 親しい新聞記者に「やっぱり、役者は上に行かないと寂しいよなぁ」と本音を漏らしている。 そんな文太にチャンスが訪れたのは、移籍から2年後のことで、『現代やくざ 与太者の掟』(1969年、降旗康男監督)の主役に抜擢されたのだ。 この映画をはじめに、主演作が続き、深作欣二監督、中島貞夫監督、鈴木則文監督らの作品にも多数出演する。3人の監督に共通していたのは、撮影所を歩く文太のギラギラと光る目に飢えを感じ、それを俳優としての魅力と捉えたことである。 文太の台頭と重なるように、東映も大きな転換期を迎えていた。 1971年8月大川博社長が亡くなり、後継者として、岡田茂が就任する。続いて同秋には藤純子(現在は富司)の引退が発表され、全盛を誇った任侠映画の翳りが顕著になってくる。だが、任侠路線に乗るには遅かった文太は新たな活路を見出す。 深作と組んだ実録路線『仁義なき戦い』である。 映画の1作目から広能を悩ませ、抗争の原因ともなる山守組長は金子信雄が演じている。ずる賢く、小心で、変わり身が早いキャラクターで、深作は金子の演技を見て「こんな親分が本当にいるのか、と不安が付きまとっていた」という。