ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (9) 外山脩
ファゼンダ側も、開明的な人物が経営する所は、施設を近代化し労働条件を改善した。が、それはごく一部で、その他は止むを得ず奴隷の使役を止めただけで、近代化や改善への意欲は稀薄だった。 そういう感覚は、移民の導入を事業とした移民会社も同じだった。誠実な仕事ぶりではなかった。 その仕事は、まず州政府に「船賃補助つき移民導入枠」を申請することから始まる。枠(人数)が交付されると、送出国側の同業者と組んで、移民の募集・輸送をする。移民から徴収する手数料が彼らの収入であった。 ところが、それとは別に、移民の海上輸送を担当する船会社と裏で交渉、州政府からの船賃補助分の一部をピンハネした。その分、移民の負担が重くなったり、船内での扱いが悪くなったりした。 そのカラクリは判りにくかったために、移民は知らずにいた。が、彼らがファゼンダのカフェー園に着くと、直ぐ気がつく「いかさま」があった。それは、彼らが祖国で移民募集に応じた時、募集する側が誇大な宣伝をしたという事実である。 現実が、その宣伝とは違い過ぎることを知った移民たちが、幻滅して騒ぎだす……といった類いの悶着が頻発した。 移民送出国の外務省が、ブラジルに置いている出先機関(主として領事館)は、その処理に手を焼き、ドイツなどは、このカフェー園移民を、早い時期に禁止した。 もっとも「植民地移民」は継続させた。これは、計画的に造成された入植地の中の土地=区画=を、移民が購入して自営農として入る仕組みであった。無論、自己資金を相当額、用意する必要があった。 南欧諸国の場合、そういう資金力がある移民希望者はいなかったため、ドイツがカフェー園移民を禁止した後も、許可していた。それがイタリア、ポルトガル、スペインであった。特にイタリアが多かった。 しかし、ある時期から、そのイタリアからも来なくなってしまう。 これは、十九世紀末に始まり二十世紀初頭まで続いたカフェーの国際価格の低迷が、原因していた。多くのファゼンダで労務者に対する賃金支払いが滞り、一八九九年には遅延期間は三カ月から一年に及んでいた。被害者はイタリア移民の場合、その半分、三〇万人と報道されるほどの惨状となった。 イタリア政府は、ことを重視、ブラジル政府に被害者の救済を要請した。しかし「如何ともなしがたい」という返事が戻ってくるだけで、ラチがあかない。ためにイタリア政府は遂に一九〇二年、カフェー園移民の送出を禁止してしまったのである。 このカフェー危機は、日本公使館の開設後、間もなく始まった。以後、無数の悶着を見聞していた公使館は、日本からのカフェー園移民送出に絶対反対を唱えた━━と、そういう次第である。 公使館は、その反対論を、何度か本省に送っているが、その中に、次の様な指摘(要旨)があった。 一、ブラジル政府は移民を導入するため、良いことだけを宣伝、悪いことは隠す。 二、移民会社は、甘言を使って愚民を誘う。 三、右の宣伝や甘言を信じて移住すると、痛烈な失望を味わう。 四、その結果、移民の不平、苦情などの悶着が無数に出、収拾できぬ有り様となる。移民は他に仕事も無く、落ちぶれ、食にさえ窮し、結局、自国の在ブラジル領事館に泣きつく。 右の指摘とは別に、公使館は「移民を考えるなら、日本の資本家の経営による植民地を、この国に造り、そこに自営農として入れる以外にない」とも具申していた。 この公使館の反対意見表明の前後、日本とブラジルの間では、双方の移民会社の社員の往来や商談が行われていた。が、いずれも実現しなかった。 草創期(2) 日本公使館は、二代目公使の時代も、カフェー園移民には反対であった。 ところが一九〇五年四月、三代目公使として着任した杉村濬(ふかし)が、これを一変させた。カフェー園移民に、積極的に取り組み始めた!のである。そして、それが三年後の笠戸丸に一直線に結びついていく。 杉村公使は着任すると直ちに、ロドリーゲス・アルヴェス大統領を訪問、国書を奉呈した。その席上、大統領の口から、日本移民の導入を希望する話が出た。欧州からの移民の激減で、カフェー園の労務者不足が深刻化、その対策は国家の急務となっていたのである。 杉村は、近くサンパウロ州のカフェー地帯を視察する予定でおり、スケジュールを新聞記者に公表していた。大統領は、それを読んでおり「旅行中の便宜を図りたい」と申し出た。(つづく)