#MeToo 以降の潮流の中で宮本亞門が新たな解釈で描き出す『蝶々夫人』の純粋なる愛!
2019年に東京で初演され、2022年にはドレスデン、サンフランシスコでも大成功を収めた宮本亞門演出によるオペラ『蝶々夫人』が日本に凱旋し、再び上演される。2020年に亡くなった世界的デザイナー・髙田賢三が衣裳デザインを担当し、彼にとって生前の最後の仕事のひとつともなった本作。新たな解釈と斬新な演出で、『蝶々夫人』の従来のイメージを打ち破ったとも言われる本作への思いを宮本亞門が語ってくれた。 【全ての写真】『蝶々夫人』2019年公演より ――2019年の東京での初演時、“日本的ではない”『蝶々夫人』を求められているとおっしゃっていました。こうしたリクエストを受けて、どのように亞門さんなりの『蝶々夫人』を構築していったのでしょうか? まずは制作の経緯や流れについてお話しできればと思います。いま、オペラは世界的に共同制作が多いんですね。なので、つくる前の段階から私もドレスデンやサンフランシスコに行って、打ち合わせをしておりました。当時、驚くくらいみなさんに何度となく言われたのが「『蝶々夫人』は世界で最も上演しにくい作品だ」ということでした。 僕自身、以前『マダムバタフライX』(2012年)というお芝居と映像を重ねた作品をつくった際に『蝶々夫人』のことはいろいろ調べたんですが、当時からマダム・バタフライの年齢設定が15歳ということも含め「これは女性蔑視の物語ではないのか?」「いま、この作品を上演することの意義はどこにあるのか?」といった議論がヨーロッパで起こっていました。 オペラの上演に際して、音楽や歌詞を変えてはいけないというルールもあり「ヨーロッパの人間はもう『蝶々夫人』を上演することはできないだろう」、「(蝶々夫人と同じ)日本人が演出するのであれば、上演できるのではないか?」とも言われていました。 実際、ドレスデンでも過去には人気のレパートリーではあったけど、もう『蝶々夫人』は上演できないので、新しいバージョンをということで、日本人である私のところに話が来たわけですね。 次にサンフランシスコに行きますと、今度はアメリカでは、ピンカートンがメインキャストのひとりであるにもかかわらず、観客の共感を得づらく「何を考えているのかわからない」という存在になっているんですね。ベラスコによる戯曲はラブロマンスの傑作とされていましたが、近年の#MeToo運動の流れもあり、時代が変わっていく中で「この設定はどうなんだ?」となってしまい、このままでは上演するのが厳しいので、ピンカートンの立場を変えることはできないか? という話がありました。 これが作品づくりのスタートでした(苦笑)。もし日本だけでの上演であれば、美しく愛らしい物語として、みなさんが思いをはせてくれる部分もあり「日本を代表するオペラだ」となりますが、国際共同制作となるとそのままでは難しい……。 ただ、こういう状況でかえって私は燃えるタイプなんですね(笑)。そこで「何か手はないか?」と考えた末に、本来の舞台にはいない、マダム・バタフライとピンカートンの成長した混血の息子を登場させ、彼が過去を回想していくという流れにしました。つまり、これは“過去”のことなんだけど、本人たちは真剣に恋愛をしていたということをきちんと語りたいと思ったんですね。そうさせたのは、プッチーニの音楽の「愛の二重唱」があまりにも素晴らしく、あまりに壮大だったからで、この世界、いや宇宙でふたりが出会い、純粋に愛に昇華していった瞬間としか思えないような音なんですよね。時代は変わっていくけど、自分は両親が本気で愛し合った末に生まれた子どもだったんだと。 正直、この解釈は日本の観客には愛されないかもしれないとも思いました。これまでのような、ひたすら“美”を追及するような『蝶々夫人』とは違っていたので。ただ、こういう解釈もあるのではないかと思い、賛否両論ありつつも東京二期会でこれをつくるべきではないかということで、つくり上げていきました。 ――実際に東京、ドレスデン、サンフランシスコでの上演されてみて反響はいかがでしたか? 批評に関しては、正直に申しまして賛否両論ありました。サンフランシスコの方から「これほど美しい『蝶々夫人』を観たことがない」という声もいただきましたし、逆にドレスデンで「いくら設定を変えようと、やはりこの原作は問題だ」という演出というよりも作品そのものに対する声もありました。本当にいろんな声をいただき、興味深かったですね。 オペラというのは、特に欧米においては「なぜいまそれを上演するのか?」というのが非常に大きなポイントなんですね。現代人が見て刺激を感じるもの、見ながら思考することができるものを求めるという姿勢で進んでいくんです。逆に昔のものを昔のまま、博物館のガラスの向こうに展示するような上演では大ブーイングが起こってしまいます。僕自身、決して批評家の声を意識して作品をつくるわけではありませんが、この「なぜいま上演するのか?」という点は常に考えてやっています。「クラシック=古典」という解釈ではなく、現代のみなさんに観ていただける作品にしたいと思っていました。 ――具体的に『蝶々夫人』をどのように解釈し、どのようなメッセージを現代の観客に届けたいと考えたのでしょうか? 先ほども少し触れましたが、本当に無条件に互いを愛し合ってしまったふたりの姿を見せたいと思いました。これは、あえて時代に抵抗しておこうという部分でもあります。「15歳だからいい」という思いや女性蔑視を肯定する気持ちは一切ないですが、人が初めて無心になって誰かを愛する美しさというものが、現代社会で薄れかけているんじゃないかと思います。 (マダム・バタフライとピンカートンの)息子はそれまで自己否定の気持ちを抱いて苦しんでいたけど、「両親はこんなにも愛し合っていたんだ」と知るわけです。いまの時代、“真実の愛”と言われてもなかなかそれを認めることは難しいですが、本当に人と人が心から愛を感じ合えるって素晴らしいことだし、プッチーニはそれを音楽で表しているので、僕はそれを伝えたいと思いました。 僕は、マダム・バタフライという女性は、弱々しく簡単に涙するような女性でも、昔ながらの典型的な日本人であるはずもないと思っています。それはプッチーニの歌からもそう感じましたし、非常に反抗心や自立心の強い女性だと思います。生活もできないようなボロボロの暮らしの中で、初めて好きな人が現れる――彼はたまたまアメリカ人で、自分をひとりの人間として扱ってくれて愛し合った。原作の小説を読んでも、非常に強い女性なんですけど、それが男性の脚本家たちによって、角を取られて丸みのある、優しく耐え忍ぶ女性に変えられてしまったのが僕は悔しかったし、彼女はもっと魅力的で負けず嫌いで自立心が強い人だと思っています。