あの戦艦「大和」から奇跡的に生きて帰った男が語った「沈没に至るまでの悲惨な様相」
私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。今回は79年前の1945年4月7日、戦艦「大和」沈没から奇跡的に生還し、防衛省にいまも残る「軍艦大和戦闘詳報」を書いた副砲長の証言である。 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!
戦艦「大和」出撃
「准士官以上、第一砲塔右舷急ゲ」「総員集合五分前」の号令が、戦艦「大和」の艦内スピーカーを通して響きわたったのは、昭和20(1945)年4月5日、午後3時過ぎのことである。 すでに米軍は沖縄に上陸し、日本陸海軍は沖縄に来攻した米軍に対し、まさに総攻撃をかけようとしているところだった。 「大和」は、口径46センチの巨砲9門を搭載、世界最大最強の戦艦として誕生しながら、日本海軍自らが真珠湾攻撃(昭和16年12月8日。停泊中の戦艦を航空攻撃で撃沈)、それに続くマレー沖海戦(同年12月10日、航行中の戦艦を世界で初めて航空攻撃のみで撃沈)などで航空戦の時代を切り拓いたこともあって、本来の威力を発揮する機会のないまま生きながらえていた。基準排水量6万4000トン、公試排水量6万9000トン、全長263メートル、全幅38.9メートル。主要部は厚い装甲に守られ、「不沈艦」とも称されたが、姉妹艦「武蔵」は、すでに昭和19(1944)年10月24日、フィリピンで米軍機の攻撃を受け、撃沈されている。また「大和」型三番艦として建造中に空母に改造された「信濃」も、同年11月29日、横須賀から呉に回航中、米潜水艦の魚雷を受け、潮岬沖であっけなく沈没している。 清水芳人(1912‐2008)は当時海軍少佐で、「大和」第十分隊長(戦闘配置は副砲長。6門の15.5センチ副砲を指揮する)を務めていた。急いで艦長・有賀幸作大佐、副長・能村次郎大佐の待つ前甲板に駆けつけた清水に、副長は黙って、手にしていた電報用紙を差し出した。そこには、次のように書かれていた。 〈1YB(大和2sd)ハ海上特攻トシテ八日黎明沖縄島ニ突入ヲ目途トシ 急速出撃準備ヲ完成スベシ〉(聯合〔れんごう〕艦隊電令作第六〇三號 昭和二十年四月五日一三五九)(1YBは第一遊撃部隊、2sdは第二水雷戦隊を意味する。一三五九は午後一時五十九分) 「これまでも出撃するときは生還を期していなかったし、半ば予想していたことではありましたが、電文にある『特攻』の二文字が、異様なまでに目に焼きつきました。同じ特攻でも、飛行機のほうは建前として『志願』ということになっていましたが、この海上特攻は否応なしの至上命令、『大和』だけでも3000名以上の乗組員がいるわけです。しかしどういうものか悲壮な気分にもなれず、祖国の安危急迫のとき、一億特攻のさきがけとして『大和』と運命をともにするのは本望、なにも思い残すことはない、と覚悟を決めました」