じつは「成功する人」「出世する人」が学んでいる、軍事の天才「ナポレオン」の”ヤバすぎる奇襲術”をすべて明かす…!
残雪のアルプス越えという「場所的奇襲」
1796年のガルダ湖畔の戦闘で起きた各個撃破は「戦法的奇襲」であり、これを可能にした迅速かつ大胆な機動、決勝点への徹底した戦闘力の集中も、敵将の意表を突いたものだった。1800年の第二次イタリア戦役で、ナポレオンは4万2000の軍団を直卒して残雪のアルプスを越えたが、これは「場所的奇襲」であった。 フランス軍の編成は、デヴィジョン(師団・軍団)となり、スタッフ(参謀の原初的形態)の創設とあいまって、師団や軍団が独立的に行動できるようになり、作戦地域が著しく拡大した。これなども軍隊の「組織的奇襲」である。このほかテレグラフ信号通信を活用した「時空的奇襲」も奏功した。
パルチザンの泥沼、創造的破壊の限界
1796年の第一次イタリア戦役から1806年のイエナ会戦ころまでのおよそ10年間は、まさにナポレオンの「ひとり舞台」だった。しかし、各国もナポレオンの戦法を徹底的に研究し、やがてこれを打破する方法、手段を開発する。奇襲するものは、また敵から同様に奇襲される。 1808~09年、ナポレオンは自ら軍隊を指揮してスペインに侵攻し、マドリードを占領し、イギリス軍を大陸から追い出した。しかし、スペインは地形が複雑で殲滅戦は起こらず、スペイン全土でパルチザンが蜂起してゲリラ戦となった。ナポレオンにとってゲリラ戦は戦法的奇襲だった。スペイン国内に20万人あまりのフランス軍がくぎ付けになる中で行われたロシア遠征でも、消耗戦と冬将軍とゲリラ戦に手を焼いた。創造的破壊でヨーロッパを席巻した軍事的天才も、みずからの頭脳は破壊できなかった。
潮書房光人新社