二十歳のとき、何をしていたか?/小泉今日子 アイドルのイメージを変える。そんな思いを胸に試行錯誤した、ひとりの少女の胸中とは?
20代での出会いが、今の自分を作る。
近田さんに加えて川勝さんまで関わっていたとは……。「オルタナティヴなカルチャーをメインストリームに」。川勝さんのコピーにひっかけて言えば、当時の小泉さんはそんなメッセージを体現するアイドルだったのか。そうした活動を支えてくれていたスタッフたちも、きっとトンガっていたに違いない。 「それはそうでしたね。私が突飛なことを言ったりやったりしても、肯定してくれる人たちだったので。私よりも突飛なアイデアを、持ってきてくれることもありました。それは私という表現者……っていうとカッコつけちゃっているみたいだけど、信頼してくれていたからだと思います。例えば、『N°17』というアルバムは藤原ヒロシくんと屋敷豪太さんにプロデュースをしてもらったんですが、それはアルバム会議のときにマネージャーが『ヒロシに作らせればいいんじゃない?』って言ったことがきっかけなんです。『でも、DJだよ?』って聞くと、『作れるだろ、DJやっているんだったら』って(笑)。それもそうかと本人に尋ねたら、『僕一人じゃ無理だけど、ロンドンにいる屋敷豪太っていう友達とだったら』って言われて。それで2人に作ってもらうことにしたんです」 「20代のことは、自分のWikipediaのページを見ないと思い出せない」と小泉さんは笑うが、さもありなん。この間、音楽の他にも女優や文筆など、あらゆる分野で活動していたのだから。そんな多忙を極めたこの時期、プライベートはどのように過ごしていたのか? というか、そんな暇はあったのか? そう問うと、「結構遊んでましたよ」と小泉さん。 「うちの事務所が変わっていたんだと思うんですけど、割と1か月休んだりできたんです。だから、意外と余裕はあって。芸能界にはあんまり友達がいなかったけど、ファッション界のお姉さんやお兄さんによく遊んでもらっていました。当時は原宿に住んでいたので、夜に自転車で『ピテカントロプス』っていうクラブや、『モンクベリーズ』っていうバーに行ったり。そういうところでクリエイターの方とお話しする時間は、私にとって大切でしたね。そういう人ってアイドルに興味がないから、私のことを知らなくて楽なんですよ。いつだったか、スタイリストの方の隣にいたら、『かわいいね。新しいアシスタント?』って言われたこともあります(笑)。みんなには『たまご』って呼ばれていたんですが、別の名前になれるのも心地よくて」 当時の小泉さんにとって、遊んでいるときは、アイドルとしての自分をほんのひととき忘れられる時間だったという。「だけど」と小泉さんは言葉を継ぐ。 「50代の今になって、20代の出会いの意味や価値が、すごいはっきり見えるようになりました。みんなで遊んでいた時期を経て、一度はそれぞれの道を究めるためにいろんな方向へ進んでいったんですけど、最近また一緒に何かをやるようになっているので。例えば、私が自分の会社を起こすときにエドツワキくんにロゴを作ってもらったり、高木完ちゃんとライブをして、スチャダラパーや川辺ヒロシくんに出てもらったり。そうやって再集結しようとしている感覚が、強くあります。その意味で、今は私にとっては『連帯』がテーマ。いろいろまずいこの時代に、我々が力を出し合って何かできないかなって思っています。20代での出会いってのちのち宝物になるんです。だから、今の若い人たちには、大いに遊んでくださいって思います」