【コラム】BARKS烏丸哲也の音楽業界裏話032「フェイクもファクトもありゃしない」
今更ながらAIがやばい。すでにBARKSでは記事にしているけれど、先日スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガンが8カ国語を喋ったのは分かりやすいインパクトだった。ネット上のコンテンツはウソもホントもなく、フェイクとファクトの境界もないという事実を突きつけた。もうなんでもありだと思った。 ◆【コラム】BARKS烏丸哲也の音楽業界裏話まとめ AIは何でも可能にする。ファクトをなぞったフェイクがファクトとなる。写真の加工はフェイク?程度問題?ではどの程度なら本物?どこから偽物?文章の編集作業はどう?ちょっとだけフェイク?それは偽物なんだっけ? こうやって私はコラムを書いているけど、この原稿もChatGPTが書いているのかもしれない。私の知人は私が実在する人物だと知っているけれど、BARKSのテキスト上でしか目にしない世のほとんどの人にとって、もはや烏丸哲也もデジタルデータの一部に過ぎない。私の存在自体、原稿を生成しウェブ上に掲載するAIみたいなものだ。オリジナルな原稿としてここに記されたことは事実だけど、私が人力で書こうともAIが書こうとも、もはやそんなことはどうでもいいことだ。 音楽もそう。AIは世の音楽を取り込み、学び、その学習した知識から楽曲を自動生成する。その工程はミュージシャンが人生を通じて音楽への知見を高めていく行為と何ら変わらない。 「アーティストの声の権利はどうなるのか?」とYOSHIKIも警告を鳴らしていたけど、そういうコンテンツはすでにネット上に溢れている。フレディ・マーキュリーも最近の日本楽曲を日本語で歌っている。今でこそ完成度は今ひとつだけれども、2024年のうちにとんでもない仕上がりになるのは疑う余地もない。好きな曲を好きなシンガーに歌わせ、完璧な映像で提供するサービスも生まれることだろう。洋楽好きの間で「もしも…」の夢物語のように語られてきた、ギターはジミヘンでドラムはボンゾ、ベースはジャコパスが弾いて歌はマイケルね…なんてスーパーバンドによる新曲だって、そのうちネットに溢れてくる。 そしてそれらは音楽ファンに狂騒的な刺激と興奮をもたらす。だけど一時的に。そしてきっと我々はふと気づく。「これの何が面白かったんだっけ?」と。 ネット上にあるエンターテイメントに、フェイクとかファクトとか線引すること自体がナンセンスになった。本物か偽物かを判別すること自体に意味がない。今を持ってUFO映像がオワコンであるように、ネット上の様々なエンタメは白け一気に熱を失うかもしれない。一線を画す残された砦は「リアル」か「バーチャル」か、それだけだ。 音楽を楽しみたければライブに行こう。いろんな刺激と感動はフェスから生まれる。そうなることは間違いない。何が言いたいのかといえば、価値はリアルからしか生まれなくなるということだ。生身=フィジカルこそすべての根源であることを今一度再認識することになると私は思っている。 技術の発展は人々に便利を提供した。誰にでも等しく平等にその機会を与えたことは、個人差をなくすことに貢献した。できなかったものが誰でもできるようになった。例えば、旨いご飯を炊くには「初めチョロチョロ中パッパ、赤子泣いてもふた取るな」という経験とスキルが不可欠で、美味しいご飯を炊くことができる職人こそが、極上の食事を提供する飲食業の長になったことだろう。でも炊飯ジャーの登場で、国民誰もが簡単にご飯を炊けるようになった。通常生活においてご飯を炊くスキルを求めることはなくなった。 移動もそうだ。徒歩や乗馬しかなかったときには、移動することも人によって大きなハンデがあったけれど、200年ほど前に自転車ができ、20世紀のモータリゼーションによって交通手段が提供され、誰もが等しく同じ時間で移動することが可能になった。今では当たり前のことだけど、移動にかかる時間が老若男女等しく同じになったことは、とんでもないエポックな出来事だったはずだ。 音楽にまつわるネット上のエンタメは、格差なく誰でも等しく作ることができ享受もできるようになった時点で、価値を失い寿命が尽きるであろうことは想像に難くない。求心力のないエンタメは…きっと面白くない。 だから、残るのはリアル。音楽のリアルとはライブだ。イベントとかフェスとかいろんな形があろうけれど、肉体が介在し、そこに感情がうごめき、予定調和に終わらないライブな感情が人々を結びつけ、共有し、感動を生む。ストーリーは人間の肉体に紐づく。人間が織りなすエンターテイメントにこそ価値があることを実感するのは、オリンピックが大きな感動を生み、多くの人々がスポーツに心を動かされることと同じだ。 どんな楽曲をパフォーマンスするのか、そこに意味がある。その曲が本人の書き下ろしなのかカバーなのか、あるいはAIに作らせたものなのか、そこを問う意味は日に日に薄れていくだろう。一流のシェフは一級品の素材にこだわるけれど、その素材の生産者が誰なのかまでは、消費者の我々は気にかけない。いわばそういうことだ。 そんな世界は、遠い未来じゃない。すぐ目の前まできている。第五次産業革命の志向で音楽を捉えるならば、人間に与えられたフィジカルこそ、アーティストにとってかけがえの財産であることは間違いないだろう。だからこそリスナーの我々も肉体を鍛え健やかな精神を育み、命を燃やす生き物として基本に立ち返ったほうがいい。北斗の拳の世界観じゃないけれど、少なくとも、他人のあれこれに揚げ足を取り、誹謗中傷を言っている暇はない。 AIによって加速する未来の世の中がディストピアになるのかユートピアになるのかは、まさに今、我々が何を実行するかに関わってくると思うのだけど、違うのかな。 文◎BARKS 烏丸哲也
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