レコードの検閲と発禁、業の結晶としてのジャズ……音楽史の暗い裏面を描く2冊
2018年、いくつかの音楽配信サービスで「The Uncensored Playlist(無検閲プレイリスト)」なるプレイリストが公開され、爆発的に再生回数を伸ばした。 いわゆる強権国家には検閲が付き物であり、ネット上の情報もむろん規制されている。だが、監視の目の薄い場所がないわけではない。音楽プラットフォームはそのひとつだった。そこに目を付けたNGOの国境なき記者団は、中国、ベトナムなど言論弾圧の厳しい数カ国のジャーナリストにある作戦を持ち掛けた。検閲された記事を歌詞にして音楽に仕立てようというのだ。「The Uncensored Playlist」はそうして作られたアルバムから抜粋した曲で編まれたものだった。封殺されたメッセージが、音楽となって検閲を掻い潜り、禁止した国に響いたのである。 ■レコードを検閲した小川近五郎という人物 旧聞に属するこの事件を思い出したのは、毛利眞人『幻のレコード 検閲と発禁の「昭和」』(講談社)の以下のくだりを読んだからだ。 「この当時は出版が非常に厳しくて雑誌や新聞では五・一五事件のことは活字にできなかったんですね。ところがレコードというものはその当時、検閲がなかったんです」(音楽評論家・森一也の証言) レコードという新メディアが本邦に登場したのは明治の半ば。大衆化し市場が大きくなり影響力が増すにつれ、行政にとって規制したい局面も増えていったが、レコードの取り締まりは一筋縄ではいかなかった。 一番の理由は、取り締まるための法律がなかったこと。検閲の根拠となっていたのは出版法(明治26年公布)と新聞紙法(明治42年公布)で、内務省の管轄だったが、これらの法律ではレコードを捕捉できなかったのだ。 そのため、風紀紊乱のおそれありと行政が考えたり、市民から非難する声が上がったりしても、各県の警察や教育機関が歌唱禁止を命じるのがせいぜいで、レコードそのものが発売禁止になることはなかった。昭和に入るあたりから国会で、レコードも含むかたちに出版法と新聞紙法を改正するべきではないかという意見が出始めたものの、実現にはなかなか結びつかなかった。 そうした状況を一息に変え、改正に向かわせたのが、五・一五事件をネタにツルレコードが制作した3枚の記念レコードだったのである。 「この記念レコード事件はレコード検閲への動きを大きく加速させた。(…)各府県で取り締まりの基準がまちまちであったため、中央の思うように取り締まることができなかった。その欠点が五・一五事件記念レコードで露呈したのである」 五・一五事件から2年後の昭和9(1934)年、出版法は改正された。公序良俗を乱すといっては場当たり的な対処で遣り繰りしてきたレコード規制だったが、結局、法を動かしたのは政治マターだったわけだ。 五・一五事件以前にも、レコードの検閲が甘いことに目を付けた共産主義者らが、ソビエトでアジ演説を吹き込み日本に持ち込むという「The Uncensored Playlist」さながらの事件があったりして、当局が神経を尖らせるようになっていたことも背景にはあったようだ。 さて、めでたく(?)レコード検閲に法の後ろ盾ができた内務省は、よーし、風紀紊乱や危険思想をバリバリ取り締まるぞ、とばかりにレコード係を新設し、小川近五郎という下級官吏の属官を検閲係に抜擢した。小川は以後長きにわたって、実質的にほとんど一人で、発売されるすべてのレコードを検閲していくことになる。 本書が面白くなるのはここからである。それは小川近五郎という人物の多面的で複雑な個性に依っている。小川の登場後本書は、彼の言動をあらため、半生を追い、その人格の謎を追求する伝記の様相を帯び始める。小川の判断や行動がすなわち検閲の内実と実際であるわけだから必然的な流れだ。 「小川近五郎は偉人でも才人でもない。歴史に埋没した一官吏である。役人らしい役人ではあるが、常に四角四面で居丈高なわけではない。検閲をめぐる発言からは人間味が溢れている」 「そのありさまに暗黒時代の戦前を感じさせる圧迫感はなく、むしろ市井のおじさん感が強い。(…)/レコード検閲の流れを追いながら、この音楽好きの検閲係の虜となり、ストーリーは自然に小川近五郎伝に転がっていった」 小川にはコレクター気質もあったようで、自分で発禁にしておきながらその発禁レコードを溜め込んでいたらしい。奇妙というべきか、人間らしいというべきか。あるコレクターが死んだ後、彼が小川から譲り受けた盤が市場に流出した。永遠に失われたと思われていた「幻のレコード」が忽然と姿を現したのである。コロムビア・リズム・ボーイズ「タリナイ・ソング」と笠置シヅ子「ホット・チャイナ」のスプリットシングルがその盤で、今や復刻され手軽に聞くことができる。 「あるいはまだどこかに、彼の残した発禁レコードコレクションが散逸を逃れて眠っているかもしれない」 ■ジャズの暗い側面を「業の歴史」として捉える 二階堂尚『欲望という名の音楽 狂気と騒乱の世紀が生んだジャズ』(草思社)も、音楽の歴史を暗い裏の面から描いたものだ。 ジャズが悪所から生まれたというのはしばしば言われることだし、その歴史が人間のネガティブな側面と分かちがたくあったことも一面の真理だろう。その暗い側面を「負の歴史」と見なさず、「業の歴史」と捉えたところに本書のユニークさはある。 「ジャズの歩みを丹念に辿れば、この音楽が二十世紀アメリカの裏面史と深い関係があったことがわかる。戦争、売春、ドラッグ、酒、犯罪、人種差別、民族差別、リンチ――。それらをまとめて人間の〈業〉と言ってしまいたい。(…)ジャズとはそのような人間の〈業〉の結晶であり、ジャズの歴史とはすなわち人間の〈業〉の歴史である」 描かれるのは日米のジャズの歴史で、異なる二つの国のジャズ史が、通底する「業」で結びつけられ、並列されていく。「ジャズとセックス」「ジャズとドラッグ」「ジャズと反社」といった具合だ。 「ジャズとドラッグ」を見てみよう。章題は「みんなクスリが好きだった」。まず紹介されるのは、日本人ジャズメンとヒロポンとの深い関わりである。 1954年7月27日、横浜伊勢佐木町のナイトクラブ「モカンボ」で伝説的なセッションが行われた。通称「モカンボ・セッション」。当時第一線のミュージシャンが百名近く集結した、本邦におけるごく初期のビ・バップのセッションだったことに加えて、奇跡的に録音されており、早世の天才ピアニスト守安祥太郎の演奏を後世に残したことでモカンボ・セッションは伝説と化した。 一方でモカンボ・セッションは、いわばヒロポン・セッションでもあった。楽屋裏にはヒロポンが山のように積まれており、ミュージシャンたちは入れ替わり立ち替わり打ってはステージに上がったらしい。世話役の一人だったハナ肇の「俺はヒロポンを仕入れて2階に置き、打ちたい奴には打たせたなあ」という証言が残っている。 この伝説のセッションは実は、違法薬物使用で捕まったドラマー清水閏の出所祝いとして開催されたものだった。 「クスリで逮捕されたミュージシャンの出所祝いのイベントでみんなでクスリをキメるというのは創作落語にでもしたらさぞかし面白そうな話だが」と二階堂は呆れ気味に書き付けている。 ウェブマガジン「ARBAN」連載時にこのくだりを読み、「こんな攻めた角度からの邦ジャズ史は初めて見た」と笑ったものだ。 このエピソードの後、日本におけるヘロイン受容とヒロポンの歴史をあらため、音楽とドラッグの結びつき、インスピレーションを生み出す触媒としてのドラッグ幻想の源泉を探るべく、アメリカのジャズ史に筆は運ばれていく。 他の項目についても同様の対比で話は進められるのだが、歴史といっても必ずしも通史的ではなく、面白さは、著者が発掘してみせる、どちらかと言えば歴史の影に埋もれたエピソードの多彩さと、それらから紡ぎ出される物語の妙味にある。その意味で本書は優れた読み物になっている。 総じて日米が並べて語られているが、実は第1章にあたる「ジャズとセックス」ではこの均衡が成り立っていない。それは日本のジャズというものが、戦後、アメリカの支配下で、米兵にセックスとともに供される娯楽として再出発することを余儀なくされたものだったからだ。 「戦後の占領下においてジャズは蘇った。日本人の求めによってではない。征服者の欲望によってである」 他人の欲望を受け止めざるをえなかった日本人の「業」はしかし、ジャズの起点にある黒人が負わざるをえなかった「業」の輪廻のようでもある。そう考えればここにも隠れた「並列」があると言えるかもしれない。
栗原裕一郎