人間は何秒か先の未来が見えることもある・内川聖一さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(28)
プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第28回は右打者のシーズン最高打率3割7分8厘を誇る内川聖一さん。大分工高時代は監督だった父一寛さんとともに、プロ入りではない別の目標に向かっていたそうです。(共同通信=中西利夫) ▽父を理解できる部分と、できない部分 野球を始めたきっかけってないんですよ。母は「野球をやらせたくなかった」とよく言いますが(一寛さんが大分の県立高監督を歴任していた環境で)そんな選択肢はないだろう、というのが僕らの家庭です。野球がうまくいかないと、そういう家庭をすごく嫌になった時もあるし、そんな家庭じゃなかったら他のことでもっと楽しくやっていたと思った時期もありました。今、こういう立場になると、そういう家庭で良かったなというのもあります。 高校時代までは父ではなくて完全に監督です。「分かってると思うけど」と前置きされた上で、他の選手とおまえが5対5じゃ、絶対おまえを使えない。極端な話、8対2とか9対1、周りに10人いて10人がおまえだと言わない限り、俺はおまえを使えないからな、と言われましたね。父が監督なのはトータルに考えるとメリットの方が多いです。身近に目標とする人がいて、常に目に入るところにいるのはメリットだと思います。
父を理解できる部分、理解できない部分と両方あります。父が初めて甲子園に行ったのが36歳の時かな。同じ36歳になった自分を見て、俺は高校生に対してこんなにエネルギーを燃やせないな、やっぱり父はすごいことをやってたんだなと思いました。こんなに本気で怒ってたんだなと感じて、俺には無理だなと。 高校3年夏の(大分大会)決勝に勝っていたら、人生は100%変わっています。僕の野球の目標は正直、甲子園とオリンピックに出ることでした。プロになることは、あんまり考えてなかったです。決勝で負けた瞬間に人生の目標が全て終わってしまったぐらいの気持ちでした。 (2000年シドニー大会まで)オリンピックがプロ、アマチュア混合の時代でした。プロに入って高卒4年目で五輪に出るような主力になる可能性と、大学でアマ球界のトップになって日本代表に選出される確率を考え、大学へ行って日の丸をつける可能性の方が高いなと思っていました。甲子園へ行った段階で、必然的に大学を選んでいたでしょう。夏に負けて出られず、くそっと思いましたし、そこでちょっと野球に対して火が付いたというか、よしプロでやってやろうか、という気持ちになったのはありましたね。