コミュニケーションへの臆病さから進む孤独。変革の鍵は、人の「弱さ」と向き合うことにあった。
---------- 心のタフネスが問われる現代で、「他者」を理解し、ともに生き抜く方法を模索する――哲学者・稲垣諭さんの『「くぐり抜け」の哲学』を、「読者と共に問いに向かって歩む、心の友」のようだと美術作家・大槻香奈さんは語る。「から」(殻・空)や空虚さをモチーフに日本独自の精神性を探る『日本現代うつわ論』も発案する大槻さんが本書で体感した、「弱さ」をくぐり抜けることとは――? ----------
弱さを抱える私達の新たなコミュニケーション
固有の物語をそれぞれに抱える私達は、強かれ弱かれ多様な形で、もうじゅうぶん社会の中で傷ついてきたと言えるのかもしれない。いっぽうで傷付くことを避けゲームを愛し、社会的立ち振る舞いだけを身につけてきた人達もいるだろう。いずれにせよ、まだまだ自身のことも他者のことも本当の意味では何も知らないのかもしれない。よりよい社会を夢見るために、まずは私達の「弱さ」の正体と向き合う必要がある。 『「くぐり抜け」の哲学』では心のタフネスが求められる現代社会で、あらゆる人間の、主に男性性の弱さについて向き合っている。男性という性を他者化し、その弱さを問い直しているのだ。精神的に弱りきった社会の中で自己を見つめ、他者と共に歩んでいくことの難しさを抱える現代人は多いだろう。近年のリテラシーの高まりにより、互いに踏み込んだコミュニケーションをすることは、どこかで加害性を孕むようになることを本能的に知っていて、私達は自身や他者のやり取りに対して臆病さを加速させていく。そうしてどんどん孤独になってしまう。人はそのような地点から、どのようにコミュニケーションを諦めないでいられるのか、という問いに本書は応えてくれていると感じる。 著者である東洋大学教授の稲垣諭は、現象学、環境哲学、リハビリテーションの科学哲学を専門としている。本書を含むこれまで著者の刊行された書籍の中では、いずれも現代社会の見えない弱さ(ひいては死の気配)をどこかで察知するような眼差しがあり、様々な事象に対して時間をかけて丁寧に向き合い、私達の潜在意識に迫る哲学的アプローチが印象に残る。答えの提示というより読者と共に問いに向かって歩む、本書は心の友のようである。 「くぐり抜け」はドイツの哲学者E・フッサールの現象学に基づき、当事者だけの体験があることを前提としながら、個人の主体性を明らかにするだけでなく、「体験」と「身体」と「他者」との関わりの中で編成される主体を明らかにしていく。そうしたことを経て他者に近付き理解をしていく、どこまでも時間をかけた対話なのである。 冒頭では著者自身のマイノリティ感覚について述べながらマジョリティとしての自覚についても同時に触れられ、著者のそうした打ち明けによって「読者である自分自身はどうか?」と、自然に向き合わされることになる。その上で、強さと置き換えられるべきものとは異なる「弱さの経験」について肯定し、私たちはそれをどこまでくぐり抜けられるのか? その先に何があるのかという問いを抱えて、また同時に「人類の歴史」のくぐり抜けをも試み、本書は壮大な思考の旅に出る。 本書の表紙にはクラゲが描かれているが、まさにこの「くらげの現象学」から、まずは他者としての「くらげ」をくぐり抜ける実践に入っていく。その中でクラゲを「自然と一体に生きる動物」と表現する場面があるが、「くぐり抜け」そのものが、引いてみれば現代社会の中で意図的に自然化するための大きなヒントになるかもしれないと予感させる。共感とも感情移入とも違う「くぐり抜け」は、言い換えれば肯定も否定もせず他者をひとまず受け止めてみることに近しい。私の実感としては、そうして人間が新しい自然的な姿を獲得することで、人を信じる気持ちが新たに生まれてくることを期待する。 そうして本書は、くらげからリハビリテーション医療、至高性、民主主義、坂口安吾、プレイとゲーム……など様々なテーマを扱いながら弱さの正体を探っていく。そこで個人の主体の解体と、他者との体験による自身の作り変えを擬似体験することとなる。私は女性だが、性の異なるひとりの人間として男性性を自分ごととして読むことができた。 個人の強さへの要請はひいてみれば無意識下で孤独感に繋がるものと言えるし、人が自身の弱さと向き合えないとき、その弱さが他者(自分より弱い存在)への攻撃に向かうこともある。本書では例として「僕だけ不幸だ」「僕以外は幸せそうだ」といったような無差別犯罪者の声もいくつか取り上げられるが、彼らの行いが絶対的に許容できない犯罪行為であるのは自明として、今後そういったことが起きない社会のために、人間の弱さと向き合いながら他者を理解するため、共感でもなく彼らの生を「くぐり抜け」ることの必要性を述べる。 著者はあらかじめ、弱さのくぐり抜けにはうっすらと強さの要請があることへの自覚から、弱さと向き合う不可能性についても気にかけつつ、「急ぎすぎてはいけない」と力を込めずゆっくり進むことを宣言している。そういった安心できる読書体験に最後まで守られながら、しかし同時に、本を閉じれば弱さの「くぐり抜け」による疲労感が残る。けれどもそれは他者と共に生きる前向きな疲れであって、自分固有の閉じた物語から抜け出す、いわば幸福の切符を手に入れたようなものだと実感できる。 本書の最後に、著者は未来へのコミュニケーションの希望としてマイクロ・カインドネスを提案する。小さな親切心、弱い体験の積み重ね、その相互性によって人間が人間を信じられる場所を作れるのではないかと。著者自身が本書を通して弱さを粘り強く「くぐり抜け」た先のひとつの回答として、この爽やかな夢想への信頼がある。 ---------- 『「くぐり抜け」の哲学』稲垣 諭(講談社) 触れるでも、素通りするでもなく、「くぐり抜け」てみる。 共感とも感情移入とも違う――それは、「他者」を理解するための新しい方法論。 現象学から文学、社会学、生物学、人類学、リハビリテーション医療、舞踏、ゲーム・プレイ、男性性――現代社会の諸相に向き合い続けることで浮かび上がる「弱さ」の正体。個の強さが要請される今、他者とかかわり生き抜くための哲学的逍遥。 ----------
大槻 香奈(美術作家)