重病を公表したサッカー選手・細貝萌の勇気…困難を乗り越え、自分の役割をまっとうした男の生き様
命にかかわる病気を公表したワケ
シーテフの支援活動だけではない。コロナ禍で日本がマスク不足に陥っていたなか、タイでプレーしていた細貝は故郷の群馬・前橋市にマスク1万枚を寄贈している。バンコクでは日本人学校を訪問し、ポケットマネーでサッカーボールを100個寄贈。「新型コロナウイルスが終息して学校のグラウンドで遊べるようになったらサッカーをやってもらいたい」という思いからの行動であった。 細貝自身にも病気との戦いがあった。 レイソルからタイの強豪ブリーラム・ユナイテッドへの完全移籍が決まった2018年12月のこと。体の不調を訴え、病院で精密検査を受けた。ブリーラムには当然ながら病名が報告されているが、対外的には「体調不良」とされた。 一定の空白期間を経てタイに渡って3月から試合に出続けたために、体調不良の理由について周囲が目を向けることもなかった。だが随分後になって自ら公表した病名に、人々は驚かされた。 膵のう胞性腫瘍。 つまりは膵菅の粘膜に腫瘍ができる、命にかかわる病気であった。医師から説明を受けた際、細貝は頭のなかが真っ白になったという。実は腹部を6カ所切る手術に踏み切っていた。自分でも情報を集めていく際に「余命」の文字を目にしたこともあった。 回復したのち、彼が公表する前に直接、病気のことを明かしてくれた。 「死ぬかもしれないんだなって思いました。娘は2歳でまだ小さいし、どうすればいいんだって、あのときの自分のメンタルは本当にやばかったです。食事もノドに通らないし、夜も眠れませんでした。でも妻と娘に支えられて……。手術は成功しましたし、医師の方はじめ病院の方、支えてくれた妻や娘には感謝しかありません。サッカーもできないかもしれないと思っていたのに、今こうやってプレーできているわけですから」 復帰まで1年掛かるという見立てもあるなか、彼はただ一人2部練習を敢行して7kgも落ちていた体重を戻しながら約3カ月で復帰している。血がにじむような努力と執念があったことは言うまでもない。 細貝が病気の事実を公表したのは何故か。それは彼らしい理由からであった。 「これまで公表しなかったのは、やっぱり心配されてしまうじゃないですか。それが僕としては嫌だった。でも家族や周りの人に相談したら、僕と同じ病気で闘っている人の力にちょっとでもなれるかもしれない、ちょっとでもポジティブになってもらえるかもしれない、と。実際、公表したことで同じ病気の人から『励まされました』というメッセージもいただいています。公表して良かったなとは思っています」 振り返ってみれば細貝のサッカー人生は困難の連続だった。ヘルタ・ベルリン時代は“飼い殺し状態”となり、ストレス性発疹から入院したこともある。日本代表としてはワールドカップメンバーに届かず、むしろ悔しい思いをしてきたことのほうが多かった。 現役を群馬で終えたいという彼の思いは筆者もずっと以前から聞いていた。2021年3月、タイでのシーズンを終えると、いくつかオファーは届いていた。それらをすべて断り、代理人を通じて、群馬側に自分の思いを伝えていたという。報酬は二の次だった。9月にオファーが届き、念願どおり地元に戻ってきた。 群馬に戻ってからの3年数カ月の間には大ケガもあった。出場機会もグンと減った。しかし、困難があるのはいつものこと。ホームで現役最後の試合となったこの日の徳島ヴォルティス戦では、今季リーグ戦初先発ながら淡々と己の役割をこなすいつもの職人ぶりを発揮していた。何があってもびくともしないのが、細貝萌という男である。 引退会見はシーズンが終わるまで行なわないという。 困難を乗り越えるたびに強くなった、人々の心に残るバイプレーヤー。スパイクを脱ぐ細貝萌に、最大限のリスペクトをこめた拍手を送りたい。
二宮 寿朗(スポーツライター)