新スタジアムに「めちゃくちゃワクワク」サッカー日本代表・森保一監督が語る「エディオンスタジアムは人生の宝」選手監督時代振り返り「サッカーで広島から世界に平和を」【インタビュー詳細】
ー選手として、どういった想いでプレーしていた 私はプレーをしたJリーグの初期の頃は、アマチュアからプロに変わっていき、その中でまたアマチュアに逆戻りすることがないように、Jリーグというプロの舞台が将来につながっていくように、とにかく必死な思いで応援しくれる方がにつながってもらえるようにプレーした。 声援がこんなに我々の力になるんだなっていうことを感じてプレーしていた。アマチュア時代とくらべると、Jリーグ初期のころは一気にメディアがとりあげてくれるようになって、夢じゃないかと思ったし、これを未来につなげたいと思った。 うれしい思いと、必死に先につなげていこうという思いが同居していた。 ただ、これは残念な思いですが、感覚的には、広島が観客が減り始めたのが、1番早かったと感じた。 一時平均観客数は、4・5千人ぐらいまで減った。このままアマチュアに戻るのかなっていう危機感を持ったのは覚えている。 やはりこれからはサッカーの魅力を知っていただき、サンフレが広島の街に根付いて、愛されるように成長していけるようにとの思いはありました。 ホームタウンを広島にしているクラブとして、広島に関わるみなさんが、少しでも喜んで下さるように努力していかないといけないという思いを持って戦いに挑んでいたことを覚えている。 今、すばらしい時代を築かれて、サッカーサンフレの存在を認知していただき、最終戦に3万人近くのサポーターがきてくれた歴史の積み上げを感じた。 新しいスタジアムでも、まずは良いサッカーを展開して、魅力を伝えてもらいながら、街の潤いや活気に、街の宝になるスタジアムにさらに成長してもらいたい。 ー監督として初優勝の思い出は 最高の思い出ですね。 優勝をさしていただいたその監督、スタッフとしてうれしい喜び。あの場だけで優勝したわけではない。チームの創設から尽力して下さった広島のみなさんであったり、チーム作りに尽力して下さった多くのみなさん、チームの活動に多くの方が熱いサポートをしてくださった。そういう多くの方々の思いが創設から脈々と受け継がれていって優勝につながっていった。 私はマツダサッカークラブからプレーしたが、今西和男さん(当時の総監督)が、育成型・組織的に戦うサッカーをマツダ、サンフレッチェはしていくんだということでチームを形成した。そこが私の原点となって、プレーヤー、監督として貢献したいという思いで仕事をし、それが優勝という形で現れたと思いました。 やはりJリーグで優勝は簡単ではないし、コンセプトを持って戦い続けてやっとたどり着くんだなと思った初優勝だった。 優勝パレードには本当に人は来てくれるのかって思っていたが、多くのみなさん、サンフレのサポーターが全国から駆けつけてくれた。盛大なパレードをして喜びを分かち合えた。 本来であれば応援して下さったみなさんに「ありがとう」というお礼の言葉を伝える場だと思っていたが、いろんな方々から「ありがとう」って声をかけられて・・・「いや我々がありがとうなんです」っていう思い、自分たちがやってきたことがこういう結果につながったという思い、広島をホームタウンにしているプロサッカーチームの存在を考えるきっかけになったし、その思いは、日本代表監督をしているなかでも全く変わらず、地域が「日本」という大きな舞台になったが、我々は地域に貢献すべく活動しなければいけないというのは、サンフレッチェの経験から学んだ。