センバツ2023 社 次は「夏」だ 健闘に大きな声援戻る /兵庫
第95回記念選抜高校野球大会(毎日新聞社、日本高野連主催、朝日新聞社後援、阪神甲子園球場特別協力)に19年ぶり2回目の出場を果たした社は、20日の第1試合で海星(長崎)と対戦し、1―5で初戦となる2回戦で惜しくも敗れた。持ち味の「試合後半の集中打」は見られなかったが、粘り強く戦う選手たちに、アルプススタンドに駆けつけた保護者や生徒からは大きな拍手が送られた。【喜田奈那、猪森万里夏】 三塁側のアルプススタンドには、多くの保護者やOBらが応援に駆けつけた。白と紺のウインドブレーカーを着た全校生徒約460人が「GO」「社」の人文字を作り、メガホンをたたいた。野球部OB会長の竹中和彦さん(59)は「昨夜は気持ちが高ぶって、ほとんど寝られなかった」と話し、後輩たちの試合を見守った。 一回表に先制点を許したが、その裏、2死から山本彪真(3年)と水谷俊哉(同)の連打で二、三塁の好機を作った。しかし、続く高橋大和(同)が二飛に倒れ、得点を奪えなかった。副主将の東田浩之新(同)の父智輔さん(47)は「粘って後半に逆転してほしい」と声援を送った。 チャンスは2点を追う四回に訪れた。2死二塁から主将の隈翼(同)が中前打を放つと、尾崎寛介(2年)が生還。アルプススタンドから大きな歓声が上がった。隈の母八千代さん(51)は「私に『打つ』と言ってくれていた。とてもうれしい」と喜んだ。 だが、五回以降は飛球が目立ち、得点圏に走者を進められなかった。エースの高橋も相手打線を抑えることができず「最後まで自分たちのペースに持ち込めなかった」と反省し、「今の自分たちの力が分かった。夏の甲子園は相手を抑える投球をしたい」と次の目標を見据えた。 ◇敗北の「あの日」愛車ナンバーに 山本監督 マイカーのナンバープレートの数字は「あの日」を刻み込んだものだ。社の山本巧監督(50)の原点は、社の野球部員だった33年前の敗北にある。 山本監督は高校時代は一塁手として活躍し、3年時の1990年の春の県大会で準優勝。夏の甲子園出場が期待されていた。迎えた最後の夏の兵庫大会5回戦で強豪の滝川第二と対戦。3点を追う九回、山本監督も左前打を放つなど追い上げたが4―5で敗れた。最後の打者の右飛が相手のグラブに収まる瞬間はスローモーションのように鮮明に覚えているという。 だが山本監督は必死に涙をこらえた。「負けを受け入れると、自分の挑戦が終わってしまう」。球場から学校に帰るバスの中では再び甲子園を目指す方法を考え、指導者になろうと決意した。7月27日だった。マイカーのナンバーは今もこの数字にしている。 2014年に母校の監督に就き、22年夏に自身初の甲子園にチームを導いて念願をかなえた。夏春連続の晴れ舞台となるセンバツを前に「全ては高校の時に負けた『あの日』に決め、そこから始まった。今は甲子園が終わった後にどうするべきか、もう一つ先のことを考えている」。山本監督の挑戦は続く。【喜田奈那】 ……………………………………………………………………………………………………… ■熱球 ◇欠場の仲間へ適時打 隈翼主将(3年) 背番号12の捕手、木村元哉(3年)がインフルエンザと診断され、21日までの自宅待機となった。「木村が戻ったら試合に出られるよう初戦は何としても勝つ」。心の中に強い思いがあった。試合前のベンチで組んだ円陣では「木村に甲子園の土を踏ませるぞ」と皆で誓い合った。 2点を追う四回2死二塁、「何とかチャンスを広げる」とバットに当てることだけを心がけて放った打球は、相手の遊撃手と二塁手の間を破り、1点を返す適時打となった。大きくガッツポーズを掲げた。 その後は打線がつながらず、点差を広げられ試合に敗れた。チームを引っ張ってきた主将として「木村に本当に申し訳ない」と悔しさをにじませた。「攻撃では好機の作り方をもっと意識しないと勝てない」。そう振り返り、再スタートを誓った。 〔神戸版〕