豊臣大坂城・冬の陣後に埋めた堀の一部400年ぶり出土
豊臣大坂城の堀が400年ぶりに出現 THE PAGE大阪
大阪府文化財センターが発掘調査を行ってきた大阪市中央区大手前の医療施設建設予定地で18日、現地説明会が開かれた。豊臣期の大坂城を防衛していたものの、冬の陣後に埋められた堀の一部が400年ぶりに出土。折しも夏の陣400年で盛り上がっているだけに、多くの歴史ファンが詰めかけた。
大手口を防衛する逆コの字型の堀
現地説明会が開かれたのは、大阪城公園の西側で、府庁本館と府警本部にはさまれた一角。史料によると、豊臣大坂城の二の丸大手口を防御するため、南北および西に向かってにらみをきかす逆コの字型の堀が築かれていた。冬の陣の講和後、他の堀とともに埋められたとされてきたが、発掘調査場所から堀の一部が見つかった。 堀は南北方向に延びており、長さ約11メートル、幅約18メートルで、深さは約2・6メートル。別の場所で見つかっていた部分を含めて、堀の長さは南北240メートルにおよぶ。しかも、徳川期に堀の上の部分が削られたとみられるが、削られた部分を含めて全体を復元すると、堀の深さは5・2メートル、幅は23・6メートルに達するという。
敵兵の侵入を阻む堀の底の巧妙なる仕掛け
堀の底から「堀障子(ほりしょうじ)」と呼ばれる巧妙な仕掛けが出土した。堀の底に障子の桟のような凹凸を施す。 見つかったのは高低差50センチ程度の凹凸だが、堀に泥水がたまってぬかるんでいると、多少の凹凸でも歩きにくい。城への侵入を試みる敵兵にはやっかいな障害物となる。立ち往生しているところを、城内から矢や鉄砲で狙い撃ちすればいいので、前進を阻むことができる。 堀の傾斜は30度。石造りではないが、表面は粘土質で、つるつるして滑りやすい。府文化財センターの調査担当者は「私たちも調査中、斜面で足をとられてしまうほど滑りやすかった。規模や構造をみるかぎり、防御に関してきわめて実用的な堀だったと考える」と説明していた。
3重構造で歴史を刻む「動乱の地層」
発掘現場の地層は3重構造だ。いちばん下は冬の陣まで堀が機能していた時代の堆積層。その上に冬の陣後に埋め立てられたときの埋め土層。さらに最上層部には徳川期の盛り土層が確認された。大坂が歴史転換の舞台となった動乱の軌跡を、鮮明に刻み込む。 徳川期、秀吉期のものとされる石材が複数発見された。両期の石材が同じ場所にあった背景などは、今後の研究課題だ。 盛り土に埋まっていた豊臣期の遺物が一部公開された。茶道具類の多さが往時の豊臣文化の充実ぶりを示す半面、道具類の大半が破片と化しているのは豊臣方敗北の事実を突き付け、対照的だ。
夏の陣で焼けてゆがんだ陶器が出土
とりわけ注目を集めていたのは、夏の陣で焼けたとされた遺物類だ。調査担当者のひとりは「夏の陣で大坂城が炎上しました。焼け崩れてゆがんだ瓦や陶器が見つかり、戦火のすさまじさを物語っています」と話していた。 5月8日が夏の陣終結からちょうど400年。大坂城への関心が高まる中、会場は行列ができるほどの人気ぶりで、調査担当者に熱心に質問する参加者が相次いだ。 大阪市の60代男性は「発掘現場は迫力十分。大坂の陣の生々しい臨場感が伝わってきました」と、感動を隠せない様子だった。 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)