両腕で歩くミャンマーの牧師と合気道開祖の「最後の内弟子」 Vol.20
三沢米軍基地
採用が決まった後、三沢基地の中を案内されている最中、本間はずっと驚いていた。いわゆるカルチャーショックである。 広い道路を大きなアメ車が走っている。キャンプタクシーという基地専用のタクシーであった。戦闘機と同様に灰色にペイントされたキャデラックやフォードの大型乗用車を、基地内の将校、兵士そしてその家族達がタクシーとして使っていた。その車の後部座席は5人の大人が座れそうな広さであった。 そしてまた、将校用宿舎のリビングも広かった。大きなソファに腰掛けると、相手は4、5メートルも先のソファに座っている。日本人にとっては何とも落ち着かない広さであった。冷蔵庫も洗濯機も、日本製の2倍はある。キッチンの生ゴミ処理機が、ガーと音を立てて動き出した時、本間は将校夫人が大きなミキサーを使い始めたのかと思ったそうだ。 広い庭の緑の芝もきれいに手入れされている。その緑の芝の上で週末ともなれば家族が楽しそうにバーベキュー。テレビで観た快適な夢のような世界が目の前で展開されていた。 基地内の大型食料品スーパーには、米国本土から空輸された食料品が豊富に並べられていた。大きな牛肉の塊は安価、当時日本では高級ウイスキーであった“黒ラベルのジョニーウオーカー”なども倉庫に沢山積まれてあり、市価の4分の1程度の値段で買うことができた。 さらに、基地内の映画館では最新アメリカ映画が毎週末上映されており、米国の芸能人の慰問活動も活発だった。クラブの舞台には日本の一流ジャズ歌手やジャズ奏者も出演していた。 (Vol.21に続く)