カプコンから社員を10人も引き連れて独立した男が、なぜ『ロックマン ゼロ』の開発を任されたのか? 焼き鳥トークで入社したカプコン時代、塩ゆでパスタで生き抜いた極貧時代、そして『ロックマン』シリーズ開発までの道のりを聞いてみた
ゲーム業界の人間とお酒を飲みながら、居酒屋のノリでぶっちゃけ話を聞き出す動画企画「ゲーム人生酒場」。 『ゲーム人生酒場』画像・動画ギャラリー 第1回の日本ファルコム社長・近藤季洋氏インタビューに続く第2回・前編となる今回は、『ロックマン ゼロ』や『ロックマン9』、『蒼き雷霆(アームドブルー)ガンヴォルト』といった2Dアクションゲームの開発で知られるインティ・クリエイツの代表取締役社長・會津 卓也(あいづ・たくや)氏にゲーム業界のぶっちゃけ話を聞いていく。 會津氏は元々はカプコンのスタッフで、1996年に当時のカプコンの同僚を10人ほど引き連れてインティ・クリエイツを立ち上げたのだという。一見するとカプコンに対する離反とも思える行動を起こした會津氏らだが、当時のカプコンは彼らを出禁にしたりはしなかったのか?そして、そんな彼らがなぜ最終的に『ロックマン ゼロ』や『ロックマン9』といったカプコンタイトルの開発を行うことになったのか? ▲『ゲーム人生酒場』第2回・前編の視聴はこちらから! 今回は、そんな會津氏がカプコンに入社した経緯から、インティ・クリエイツの立ち上げに至った流れ、そして『ロックマン ゼロ』シリーズなどの開発に至るまでにあった、ぶっちゃけ話を聞きだしていく。 なお今回は動画だけでなく、本稿にてテキスト版も用意させていただいたので、電ファミのインタビュー形式で読みたいという人もこの下に続く記事にぜひ目を通してみてほしい。 聞き手は先日、元ゲーム会社社長という経歴が明かされた謎の小説家・喜多山浪漫氏と、弊誌編集長・TAITAIが務める。 聞き手/喜多山 浪漫、TAITAI ■『ゲーム人生酒場』第2回・前編 オープニングトーク 喜多山 浪漫氏(以下、喜多山氏): 今日は千葉のインティ・クリエイツさんの本社ビルにお邪魔しています。 會津 卓也 氏(以下、會津氏): そうですね。……本社ビル?(笑)まぁ、本社テナントです。 喜多山氏: テナント、ということで(笑)よろしくお願いします。 じゃあ、早速なんですけどまずは一杯、軽く入れていただくということで……。 會津氏: そうですね。ちょっと……あの、医者にいろいろ言われているので、糖質70%オフ気味のヤツで。はい。 一同: よろしくお願いします。(乾杯) 會津氏: いただきます! 喜多山氏: 簡単に、まず自己紹介みたいなところからお願いしたほうがいいですかね。 會津氏: そうですね。インティ・クリエイツで代表取締役をやっております、會津(あいづ)です。 私は昔、カプコンさんという大阪の大手会社でゲーム業界へ初めて就職させていただきまして。 そこには3年しかいなかったんですけど、その後カプコンを退職してインティ・クリエイツを設立したのが、1996年の5月でした。なので今は会社を設立してから27年ぐらい経ってるという形になりますね。 ■カプコンに入社できたのは、父親の焼き鳥屋を手伝っていたからって…どういうこと!? このパートから視聴する場合はこちらから! TAITAI: まず、何がきっかけでゲーム業界を目指していたのか、なぜその業界に入ったのか、というところからお聞きできればと思います。 會津氏: 小学校4年生の時に『ファミリーコンピュータ(以下、ファミコン)』が発売されまして、うちの父親が「コンピュータゲーム」に理解があるというか、父親本人が遊びたかったんですかね。それでファミコンを買ってくれました。 それで確か5年生の冬か6年生ぐらいの時だと思うんですけど、次に『ファミリーベーシック』(ファミコン用の家庭用プログラミングソフト)というのが発売されまして。 喜多山氏: ありましたね。 會津氏: 当時の触れ込みだと、「これであなたもゲーム作れますよ」というものが出ましたので、「あ、これだ!」と感じて購入しました。そのあと『MSX』のコンピュータを触ったりもして、プログラムをしてたのがだいたい小学校5、6年生くらいの時でした。 次に中学に入って、学校にあった『PC-8801』に興味を持って。そのあと両親に『PC-8801mkⅡMH』を買ってもらえて、ゲーム作りにどっぷり漬かって行くことになりました。 會津氏: なかでも当時は、やっぱり日本ファルコムさんのゲーム、とくに『ザナドゥ』とか『ロマンシア』、そして『イース』でとんでもない衝撃を受けまして……まあ、これゲーム業界の人間として本当は言ってはいけないようなことんですけど、当時、リバースエンジニアリングしまくってですね…(笑) 會津氏: 「どうやって作ってるんだこのゲームは!」ということで、色々と調べて88用のOSを作ったり、音源ドライバーを作ったりしました。色々と、そんなことをしている学生時代でした。当時、パソケットという同人ソフト即売会が名古屋で発祥しているんですけど、そこにサークルで参加させてもらったりもしました。 會津氏: 先日、Twitter(現X)上に、私がその時サウンドドライバーを提供した同人ソフトのキャプチャー画面を上げて、「SOUND:TAKUYA AIZU」って表示されているけど「これって貴方ですか?」みたいなのがタイムラインに流れてきてドキッとしたんですけど。それ、私なんですよ(笑) そういった同人ソフトの開発に関わったりとかして、「ゲーム会社を作りたいな」というふうに思ったのが中学3年生の時か 高校1年生の時ですかね。 喜多山氏: そうだったんですか。 會津氏: で、ゲーム会社をずっと作りたくて作りたくて……と言う風にやってたんですけど、高校卒業したらすぐに「私、ウルフ・チームっていうところに入りたくて」と、親に相談したんです。そしたら、めちゃめちゃ怒られまして……「高校卒業でそんなのありえないよ」と言われてしまいました。でも、大学に行く気もなかった。 そこで、親から「それなら情報処理の資格とか取りなさいよ」と言われたので、「じゃあ仕方がないな」と妥協しました。専門学校を2年ぐらい舐めてからゲーム業界に行けばいいだろうと思ったんですよね。 會津氏: で、3年生になった時に(3年制の専門学校だった)「どこか就職の案内来てないですか?」って言ったら、ちょうどカプコンさんの案内が来ていたんです。そして面接受けたら、面接官から「いつも何やってんの?」と聞かれました。 私はプログラムのバイトもしてたんですけど、父親が焼き鳥屋をやっていたので、プログラムのバイトを夕方までして、家に帰ると夜1時まで焼き鳥屋のバイトをしてますって答えたんです。 會津氏: そしたら、なぜか面接官から「お前、焼き鳥の部位の話わかるか?」と聞かれまして。私は「いやあの、せせり肉って首の肉があって、クニクニにしてておいしいですよ」とか、なぜか焼き鳥の説明を延々と10分ほどしてました。 そして、面接が終わり「これ、カプコン落ちたな…」と思ってたら、受かってたんですよ!「あ、良かった~」と思って……カプコンに就職したというのが、ゲーム業界に入った流れですね。 TAITAI: なるほど。 會津氏: カプコンに拾ってもらえたのは親父の焼き鳥屋の手伝いしていたからという(笑) 一同: (笑) 喜多山氏: そうなんですね。でも、中学でもうゲーム会社を作って社長になりたいっていうところまでイメージを固められてたというのも、すごいなと思うんですよね。 會津氏: それは、親の教育っていうかですね、親戚一同から「この子は社長になるか、乞食になるか、どっちかだ」とずっと言われてたんですよね(笑) 喜多山氏: 両極端(笑) 會津氏: 自分は乞食は嫌だな~と思ったので、「目指すなら社長だ!」と、ずっと小さい頃から思っていたんです。たぶん、物心ついた時からずっとそう言われています。 喜多山氏: 周りからずっとそう言われてたんですね。 會津氏: ええ(笑) ■カプコンに入るも3年で退職し、元社員11人で起業することになった流れとは このパートから視聴する場合はこちらから! TAITAI: カプコンに入社して、3年で辞めて会社作るって当時ではかなり珍しいと思うんですけど。 會津氏: まあ、かもしれないですね!はい。 一同: (笑) TAITAI: それって、もうカプコンに入る時に決めてたのでしょうか。 會津氏: いやいや、長さは決めてませんでした。まあ、あの……カプコンに入っても、辞めていく人は結構多かったですよ。在籍中から「カプコン専門学校」なんて言われてました。今のカプコンさんは違いますよ。私がいた頃の話です。 カプコンに入っても「卒業していく」って我々は言ってましたけど、そういう方は結構いて、“卒業”した後にステップアップする人もいれば、完全にゲーム開発をやめちゃう人もいたりとか、いろいろあったと思うんですけど。私は別に3年という風には思ってなかったです。 會津氏: もちろん、ゲームがちゃんと開発できるスキルが身につくまでは会社にいた方がいいなという感覚はありましたし、うまくいくんだったらずっとカプコンさんにいたいな、と思っていたんですけど、ちょっと特殊な事情がありまして……。 私は……今、思えばもしかしたら変わった人間だったのかもしれません。1993年とか94年当時の話なのですが、カプコンさんって開発員は私服で、管理職の人達はスーツ着てたんです。ということは、社内で知らない人にすれ違った時にスーツを着てる人は偉い人なんですよ。 で、私服の人は開発員なんですよ。「じゃあ、俺はスーツで行こう」となって(笑) 一同: (笑) 會津氏: 私、入社して2年間もずっとスーツでカプコンに通ったんですよ。そしたら、それがちょっと裏目に出てですね……。2年目ぐらいで、課長から「ちょっとお前来い、補佐をしろ」と言われました。それから内部の管轄が変わり、PC部門の統括サブという役職に……課長でもなんでもないですよ? 喜多山氏: 出世じゃないんですか? 會津氏: そういう立場に、2年目でなっちゃったんですよ。そこで何をやっていたかというと、当時の辻本憲三社長がどっかに説明に行く時に、プログラム的な説明を受けても分からないから誰かがレポートを書かなきゃいけないんですよね。 私がそのレポートを書く担当になり、一緒に行って、話を聞いてレポートを提出するという業務や、課長の代わりに印鑑捺くとかして(笑) 一同: (笑) 會津氏: 「あれ?……プログラマーとして入ったはずなのに、なんでこんなことをやっているんだろう?」という状況になってしまいました。 まあ、ちょっとそこは上司に不満を訴えて、3年目にはまたプログラム職に復帰できました。でも復帰後は「プロジェクトを統括して進行しなさい」というおまけもついて、若干の不満はありましたね。 それと大きい会社なので、社内で実力のある人は目立ってるんですけど、「あの人と一緒にゲームを作ったら無茶苦茶面白いものを作れるのに、一緒のチームになれない」っていう不満があったりもしました。 會津氏: ……今のカプコンさんは違うと思いますよ!当時です、当時の話です(笑) 喜多山氏とTAITAI: (笑) 會津氏: そういう不満もあったので、社内でちょっと目立ってる人たちに声をかけて、「一緒に会社作りませんか?」って声をかけたりして。 喜多山氏: なるほど……それは、結構やんちゃですね(笑) 會津氏: ええ。という話をしていたら、その中の一人が、当時ソニー・ミュージックエンタテインメントさんがやってた「Club DEP」っていう人材発掘プログラムにエントリーしていて、そこでプロ部門の優秀賞を取ったんですよ。 その優秀賞が「200万円ぐらいあげるので自分でゲーム作りませんか?」みたいな感じだったのですが「これはいい!」と思いました。そこでソニーさんに「俺ら10人で会社辞めるから、ソニーさん1億出してくれへん?」という話をにしに行ったんです。 會津氏: そしたら、当時のソニー・ミュージックの丸山さん(丸山茂雄氏)が、「100個ミニ企画出したらお前らには企画力があるってことを認めてやるから」とお話をしてくれて、こちらも「じゃあ、100個作ってきますよ!」と言って企画を出したことで、一億円で最初の仕事を出すから、というところまで道筋ができたんです。 じゃあ、もうこれは独立するしかないでしょう。「あとはタイミングだけや!」と思っていたのですが、そうしてたら当時、私が入ってたコンシューマー部門のトップの藤原得郎さんという部長がいて、のちにウーピーキャンプという会社を作られるんですが、その藤原さんが辞めるという話になったんですよ。 「今や!」と思いました。課長たちが浮き足立っているので、「僕らも!僕らも辞めます!」って、みんな方々に嘘をつくわけです。 私はというと、「腰痛くてもう座れないんで…辞めます」って……(笑)まあ、本当に腰が痛くて入院してたので、半分休みたい部分もあったんですけど。 で、「辞めます」と言ったあと「お前ら藤原さんとこ行くんやろ!」「いや、そんなことないです!」「いやお前ら、絶対に藤原さんとこに行くんや……まあええわ、今回は大目に見たる。やめてええで」みたいなやりとりもあったんですが……でも、藤原さんの所に行くわけじゃなかったんですよ(笑) 喜多山氏: (笑) 會津氏: で、あとでそれがバレて「お前ら!藤原さんの所に合流すると思って見逃してやったのに、お前らで会社作りやがって!」って怒られるんですけど(笑) 喜多山氏: あ、そうなんですね。やっぱり、怒られるんですね。 會津氏: はい(笑)まあまあ、それは後の話です。そのタイミングでは藤原さんがウーピーキャンプ作られるのにまぎれて我々もやめて、自分たちで会社を作りました。 ソニー・ミュージックさんからは「大阪で会社を作られると遠すぎて管理できないから、首都圏に来いよ」と言われていたので、千葉の習志野の付近に社屋を借りて、そこで10人カプコンから退職して合流しました。一人はちょっと遅れてきて、それで合計11人で会社を設立するという流れに至ったわけです。 喜多山氏とTAITAI: へぇえ。 喜多山氏: それが、設立の経緯なんですね。 ■「俺と一緒に会社立ち上げたいやつ、100万円この口座に振り込んでくれ!」 このパートから視聴する場合はこちらから! 會津氏: そうです!しかも、設立するときお金がなかったので……最初、有限会社を作るときってお金がいるじゃないですか。なので私が当時、皆にプリントで渡した内容が「俺と一緒に会社立ち上げたいやつ100万円この口座に振り込んでくれ!」ですよ。新手の詐欺ですよね(笑) 一同: (笑) 會津氏: でもですね、それに騙されたというか、乗ってきてくれた11人の希望者のおかげで会社が立ち上がることになって。みんなで100万円を出して、社屋を借りて場所を作って、什器を入れて「場所を作ったから1億の仕事を出してください」ってソニー・ミュージックさんに言って、スタートしたんです。 喜多山氏: へぇー……じゃあ、会社自体が共同出資で立ち上げた? 會津氏: そうです!ですので、最初は全員、同じ比率で株を持っていて、全員役員です。 喜多山氏: へぇ……それ、結構……決め事をする時に揉めるパターンじゃないですか? (※喜多山氏の経歴はゲーム会社の元社長) 會津氏: (身を乗り出して)よくおわかりで……(笑) 喜多山氏: (笑) 會津氏: それはあとの話なんですけど…会社設立してから4年後くらいの話ですが、もうしますか?その話。 喜多山氏: まだそれは、後のお楽しみで(笑) 會津氏: はい(笑) ■カプコン時代には『ブレス オブ ファイアII』や、あのタイトルを作っていた このパートから視聴する場合はこちらから! 喜多山氏: カプコン時代のお話をもうちょっとお聞きしたいんですけど、カプコン時代には、なにを作られていましたか? 會津氏: 私が入ったすぐの時は、ちょうど『ブレス オブ ファイアII(※)』を作ってる時で立ち上げ時期だったんですよ。 喜多山氏とTAITAI: おおぉ~~~。 會津氏: なので、『ブレス オブ ファイアII』は最初から制作に噛ませていただいて、「背景処理を全部組んでくれ」って言われました。フィールドを歩き回ったりするときの背景とか、魔法を使う戦闘で地形が崩れるアニメーションを作ったりしました。 そして『ブレス オブ ファイアII』の開発が終わって、次の開発に行く時が2年目の真ん中らへんです。そこでいきなり「PC部門の統括サブやれ」と言われ、プログラマから抜かれちゃったんです。 そのあとプログラマに戻って携わったのが、『バイオハザード』PC版の開発ですね。 えーっと……あんまりこれ話したらダメなのかな?まあいいや(笑) 当時はまだパソコンのOSがWindows 3.1で、まだWindows 95が出てなかったんですよ。だからDirectXとかがなくて、Windows 95が出る前の開発をしていました。結局そのプロジェクトは、Windows 95版を出すことになったため途中で終わりました。 會津氏: それが終わった後に、今度は『ストリートファイターII』を「3D格闘にしましょうや」という話になり、作り始めるんですけれども、アーケードの方から「なにコンシューマーで勝手に作ってるんや」というお話をされまして。 それで「じゃあ、システムをそのままにキャラクターだけ差し替えて別の3D格ゲーを作りましょう」と言っている途中に、藤原さんが辞められたので、それを作ってる途中に会社を辞めることになりました。 喜多山氏: そうなんですね。 會津氏: はい。そのゲームは、たぶん出てないと思います。 喜多山氏: じゃあ、カプコン在籍中に「これ作った!」というのは、『ブレス オブ ファイアII』になるんですか? 會津氏: そうですね、カプコンで作ってるのは『ブレス オブ ファイアII』だけですね。 喜多山氏: 意外でした。『ロックマン』だと思ってました。 會津氏: ああ!『ロックマン』を作ってたのはさっきの「Club DEP」に賞を出した人間と、うちの副社長の津田が『ロックマン』大好きでカプコンに入ってるので、『ロックマン7』と『ロックマンX2』を会社にいる間に作って、『ロックマンX3』は受託で作ってるはずなのになぜか津田(※)が作ってるっていうよくわからないことになってました。 なんでなってたのかは、あんまり詳しく言うと怒られちゃうんで……。 喜多山氏: なるほど、なるほど。 會津氏: はい(笑) なので、私が『ロックマン』を作ってるかっていうとカプコンにいる時は作ってないんですよ。そのあと、要するに独立してから『ロックマン ゼロ』を作ってます。 ■ソニーから一億円をもらって初仕事。その後のカプコンとの関係は? このパートから視聴する場合はこちらから! 喜多山氏: SME(ソニー・ミュージックエンタテイメント)から貰った一億円の仕事っていうのは、どういうものだったんですか? 會津氏: あ、それはですね、一番最初に出した『可変装攻ガンバイク』っていう、プレイステーションで出てるゲームの仕事ですね。尖り過ぎてて、なかなか売れなかったやつです。 喜多山氏: そこはもう、一本まるまるそのチームで作りきったってことですか? 會津氏: そうです、そうです。11人のうち2人は総合職なので、9人で作ってる感じですかね。『ロックマン』を作っていた津田がディレクターとして入っていて、あとは「Club DEP」で賞を獲った人間が……いま、辞めちゃっているので名前出すのは止めときますけど、彼もディレクションできてましたので、2人3脚でやってた感じですね。 喜多山氏: なるほど。しかしそういう、すぐにでもゲーム開発もできるような精鋭の方たちを引っ張ってきたわけじゃないですか。 會津氏: はい。 喜多山氏: その後、カプコンさんとの関係っていうのは……。 ものによっては出禁になったりとかっていうことも、普通にあるんだろうなと思うんですけれど。そのあたりはどうでしょうか。 會津氏: えっと、二つあると思うんです。まずひとつは我々がカプコンさんの中ではあまりにも雑魚だったんで(笑)要するに歯牙にもかけられてなかったってのはあると思います。 これがどういうことかというと、現場レベルというか、開発者の中レベルでは仲はいいんですよ、辞めたあとでもずっとです。要するに、同期だったりとか、同期の一個上とか、一個下とか。そういったところは非常に仲が良いです。 それを怒るとすれば、もっと上の世代だと思うんですよね。 でも、そもそも私の直上の課長もそのあと辞めて、別の会社に入ってらっしゃるんですよ。そして、中間層は藤原さんが辞めたことによって結構入れ替わりがあったわけです。 會津氏: そうなってくると、本来「あいつら辞めやがって…」って思う人間も、我々が辞めたあとにわりかし辞めちゃってるんですよ。 もうちょっと上のレベルの話をすると、たとえばオーナーとか社長とかのレベルになると、まあ、言ったら入社3年目の若造が辞めたわけですよね。別にどうってことないですよね、そんなの。 喜多山氏: 同期が100人ぐらいいる中の…ってことですか。 會津氏: そうそうそう。130人同期がいる中の人間が「なんや10人くらい一緒にやめたらしいよ」、「あっ、そう」みたいな、そういうレベルの話ですよ。大きな会社からしてみたら。 とはいえ、やっぱり現場で目立ってた人間と一緒に作ってるので、当時、企画のメインをやっていたような人間からしてみると「お前、勝手に連れてきやがって…」みたいな感じで、ちょっと冗談交じりで恨み言を言われるような感じはありました。けどまあ、それぐらいのレベルです。 喜多山氏: そんな感じやったんですね。なるほどなあ。 じゃあ、そんなに出禁になったり怒られたり、足引っ張られたりみたいな事はなかったんですか。 會津氏: なかったです、なかったです。 喜多山氏: それは良かったですね。 會津氏: よっぽど今のほうが出禁ですよ(笑) 一同: (笑) 會津氏: いやいや、そんなことはない。そんなことはないです(笑) ■パスタ塩茹で生活を経て、元カプコンスタッフが『ロックマン ゼロ』開発に至るまでの道のり 『ロックマンゼロ&ゼクスダブルヒーローコレクション』より) このパートから視聴する場合はこちらから! 喜多山氏: そこから『ロックマン』の開発というか、私もインティさんという会社を意識し始めたのって、やっぱり『ロックマン』のイメージなんですよね。 會津氏: はい。 喜多山氏: 『ロックマン』の開発に至った経緯を聞かせてください。 會津氏: ……そこからが、話が長いんですよ……。 喜多山氏: (笑)長いですか。 會津氏: まぁ、一作目に『可変走攻ガンバイク』っていうのを作りました。 それで、あんまり売れませんでした。そして、二作目も作りましょうという話になるときに、ちょうどソニー・ミュージックさんとソニー・コンピュータさんの株式の持っている割合が逆転するんですね。 ようするに、ソニー・コンピュータさんがソニー・ミュージックさんの株を持つという構図になりました。ソニー・コンピュータさんのほうが立場が上になったわけです。 そのあとソニー・コンピュータさんがアーク・エンタテインメントなどのサテライトカンパニー(セカンドパーティ)を新しく3社立てられて、そこに開発を集約してスタジオ製にしてやりましょう。というような形になっていって。 會津氏: でもそうなると、「ソニー・ミュージックからもうソフト出さなくてもいいんじゃね?」と社内理論にやっぱりなってきますよね。 弊社が付き合っていたのはソニー・ミュージックさんなので、すると次のタイトルは出せなくなるわけですよ。まぁ、あんまり売れなかったのもあってですね。 あれ、4ヵ月か5ヵ月くらいですかね……全く仕事がなくて、実入りがない中でみんな自分の貯金を切り崩してなんとか10人、11人かな。暮らしてたんですよ。 會津氏: そんな中で、ちょうどソニーコンピュータさんのサテライトのひとつのアーク・エンタテインメントさんで「次の作品を作りませんか」という話をいただいて作ったのが『LOVE&DESTROY』というタイトルです。桂正和さん(ジャンプ漫画家)に絵を描いてもらって、プロダクション I.Gさんにアニメを作ってもらいました。 喜多山氏: 豪華ですね。 會津氏: 豪華だったんですよ!でも、なかなか売れなかったんですね(笑) でもアークさんに仕事をいただいて『LOVE&DESTROY』作ったあとも、めちゃめちゃ売れたわけではなかったですし、サテライトカンパニーのカンパニー制も久夛良木(くたらぎ)さんが社長になって、「ソフトの方を重視するよりハードの方を重視しましょう」となっていった流れの中だったので、なかなか次の仕事ももらえず……。 會津氏: そこでも8ヶ月くらい、給料が出せないタイミングがありました。私なんかは、あれですね。パスタ700グラムくらいのやつを買ってきて、それを100グラムずつ毎日塩で茹でて食べるみたいな生活を3か月くらい続けてて(笑) ちょうど年末なんかだと、「みんな、白菜買ってきたぞ!」「鶏肉買ってきたぞ!」と言って、みんなで鍋で白菜と鶏肉を煮て食べたりして年末を過ごしたりしていました。そういう、結構苦しい時期を過ごしたんですよ。 會津氏: それで、そういった状況だと、やはり会社を合議制でやっていくっていう形では、次の動きを決めるのもなかなか難しかったんです。 たとえば我々は当時は3Dでゲームを作っていて、その当時だと『プレイステーション2』が出たばかりだったんですが、「最新技術のプレイステーション2で新しいゲームを作りたい」という派と、我々の技術で作りやすい、たとえば「2Dドットのアクションゲームを作った方がいいんじゃないか」と言う派で、社内で大きく二つに分かれたんです。 でもそこで皆の意見を採ろうとすると、結局どちらにも決まらないんですよね。で、この「全員取締役で、全員合議制でやるのは限界があるぞ」という話になってくるんですよ。 喜多山氏: そうですよね。 會津氏: なので、一部の人間が決めて、他の人間はそれに従うっていう形にしないとダメだ。という話になり、「新入社員も採って、我々以外の社員を作って普通の会社にしよう」という決断を最終的に多数決で決めることになるんですよ。 もちろん、その時に「いやそれは反対する」、「そういう会社を作りたかったわけじゃない」という人間は、そこから数年のうちに皆どんどん辞めて行っちゃうんです。 11人で会社を作って、今は6人しか残っていないです。 ともかく「普通の会社にしましょう」という話になった時に、会社の中で最先端3DのPS2ソフトを開発する方針を希望する人たちと、今ゲームボーイアドバンスが来てるから、ゲームボーイ アドバンスなりでちゃんとした2D横スクロール・ドットアクションを作ろうよ。といった流れがふたつ出来たんですね。 會津氏: その時にちょうど、バンダイさんの中のバンプレソフト(現B.B.スタジオ)さんの方から『クレヨンしんちゃん』をゲームにしないかという話も来ていた時期ではありましたが、それはまだ後の話で……まず、その前に津田が「ドットで作るなら『ロックマン』が作りたい」と言いだしました。 「いや、お前カプコンなんで辞めたん?」ってみんなに突っ込まれたんですけど(笑) 喜多山氏とTAITAI: (笑) 會津氏: 『ロックマン』作りたいんだったら、カプコン辞めなきゃよかったんじゃねえの?みたいな話はあったんですけど、まあ、津田はそういう風に言ってました。 會津氏: それで、E3ゲームショウでしたかね。98年だったかのE3で、ちょうど『鬼武者』の出展か何かでアメリカに来ていた稲船さん(※)にお会いしました。 會津氏: 日本のゲームショウとかだと、ガードが固いんですよ。要するにそういう大きな会社のトップって普通は近づけないじゃないですか。アポイントメントを取らないと。でも、アメリカのゲームショウだと普通にポツンっているんですよ(笑) 喜多山氏: (笑) 會津氏: しかも、英語が達者じゃない限り大体は誰とも話してない。なのでポツンといらっしゃる稲船さんを捕まえて、「津田が『ロックマン』を作りたいって言ってるんですけど」と話しかけたら、「ええよ、企画持ってきな!」と言われました。 その時は(ああ、稲船さんは社交辞令が上手いな~)と思って、「ありがとうございます、じゃあいずれ持ってきます」と言って、「よかった、稲船さんに持って来いって言われたわ~」と、まあ、社交辞令でも嬉しいよね。といった感じで日本に帰ったんです。 ところがその後、次の東京ゲームショウの時に、偶然、稲船さんに会場で遭って、すれ違った時に稲船さんが「會津!お前、ロックマンの企画書持ってくるって言ったのに持ってきてへんやんけ!」って言われてしまって……「え!本気だったんすか!?」って(笑) 一同: (笑) 會津氏: 「お前、嘘やったんかい!」って言われたんで、「あ、じゃあ持ってきます!」って言ってそこから作った企画書を冬頃にカプコンさんに持っていき、稲船さんに見てもらいました。「ほなこれ作ろか」という話になったのが、『ロックマン ゼロ』というタイトルだったんですよ。 喜多山氏とTAITAI: へぇ~。 會津氏: 「キャラクターデザインとかどうします?」と言ったら、「お前、中山おるやろ。お前のところに。中山に描かせればいいやん」と言われたので、「あ、じゃあ中山さんに描いてもらいます」と言って、社内で一緒にカプコンを辞めてきた中山さんに絵描いてもらいました。 それと『ロックマン』を作るんだったら人手が足りないということで、カプコンを辞めたあとでに入った会社を退職しようって思ってた人たちにもちょっと声をかけたりしました。そうしたら「行く行く」という話になったので、もともと『魔界村』や『ブレス オブ ファイア』など、カプコン時代にドットを打ってたクリエイターの人たちに声をかけて合流してもらいました。 そうして、『ロックマン ゼロ』っていうのを作るに至ったという感じですね。 喜多山氏: そういう流れなんですね。 會津氏: ええ、で当時の経営がむちゃむちゃしんどかったんで、稲船さんに「持ってこいや!」って言われたときに「あ……もしかしたら救われるかもしれない」と思ってがむしゃらに作って持っていった記憶はありますよね。 それで、「通してやるから、これ作れ」と言われた時に、「ああ……ようやくご飯が食べられる……」と思いました。 喜多山氏: そうなんですね。じゃあ、恩人ですね。 會津氏: そうです。むちゃくちゃ恩人ですよ! 稲船さんに頼まれたら何も断れないです。後の話になるんですけど、『Mighty No. 9』というタイトルで「キックスターターやるよ、一緒にやらへんか?」って言われたときも二つ返事で「やります!」と即答しました。稲船さんに言われたら「イエス」か「ノー」じゃなくて、「イエス」か「はい」でしか答えない。 一同: (笑) 會津氏: 「ノー」言うたらあかんねん。「イエス」か「はい」で答えるようにしてます(笑) 喜多山氏: へえぇ、そうなんですね。今もお付き合いはあるんですか? 會津氏: そうですね『ガンヴォルト』の監修をしていただいているので。 喜多山氏: そうなんですね。 會津氏: はい。それで持っていて『ロックマン ゼロ 1』『2』『3』『4』と作らせていただいて、 その後、『ロックマン ゼクス』、『ロックマン ゼクス アドベント』、『ロックマン ゼロ コレクション』、さらには『ロックマン9』、『ロックマン10』までカプコンさんの下請けでやらせてもらいました。 その時に稲船さんから、「會津、お前プロデューサーやれ」とも言われて、「え?え?カプコンのプロデューサーいるじゃないですか?」と言ったら「一緒にやれ」と言われ、プレスリリースの監修をしたり、自分で作ったりもしました。 あとは広告代理店との会議に出させてもらったりとか、そういったものも全部カプコンさんと一緒にさせてもらって、学ばせてもらいました。 喜多山氏: カプコンを辞めてからの方が、勉強させてもらってる感じですか?(笑) 會津氏: マジですよ。本当に(笑) 稲船さんに足を向けて寝れないです。 稲船さんに全部、教えてもらった感じですね。 TAITAI: 稲船さんが、「プロデューサーをやれ」と言った、その心は何だったんですか? 會津氏: ……分かんないですね!(笑) 一同: (笑) 會津氏: 多分、「自分らでちゃんとゲームを作って食っていけるようにしたりたい」って稲船さんが思っていたんじゃないかな、と思うんですよね。 うちにいた、一緒にカプコンを辞めて「Club DEP」で賞獲った人間とか、あと津田とか、稲船さんがすごく気に入ってたんですよ。ふたりとも『ロックマン』を作ってましたし。 彼らをちゃんと食べられるようにしてあげたい。そのためには會津が頑張らなあかんから、會津のスキルを上げなあかん。ぐらいの感覚はあったのかもしれないです。すごく、面倒見よくしてもらいました。 喜多山氏: 愛情を感じますね。 會津氏: ええもう、すごく助かりました。 それで、途中からさっき触れた『クレヨンしんちゃん』も作りましょうという話になり、『ロックマン ゼロ』のシステムができたぐらいに、「こういうシステム上でこういうアクションゲーム動いてる」っていう話もした上で、じゃあそれに『クレヨンしんちゃん』載せたらいいんじゃないの?みたいな話もあって。 會津氏: そうして『クレヨンしんちゃん』の仕事も貰って『ロックマン』と『クレヨンしんちゃん』の二大タイトルみたいな感じで社内で動くようになってから経営が安定して、そこからは社員も採り始めて役員も絞り込んで、ちゃんとトップダウンで動く会社の形にしようって話になっていきました。 だから、実質会社を2回潰してるんですよね(苦笑)SMEさんの仕事が終わったあと、SCEさんの仕事が終わったあと。それぞれに潰れるぐらいの打撃があって、これはこのままじゃイカンよということで方針転換をしてやっているので。 インティ・クリエイツっていう会社の体では28年間ぐらいやってますけど、最初の4、5年で2回潰れるほどの経験をしていますから、言ってみれば3回目ぐらいの会社の感じですよ。今の会社が生き残っているこの形っていうのは、私が経営する3番目の会社の体ですよね。1番目と2番目が失敗していますので。 喜多山氏: まぁでも、結果的には潰れなかったわけですし……。 會津氏: 潰れなかったのは、みんなが……あの……ねぇ。 みんなが給料ないのに、がんばったから(笑)給料なくて、よく皆生きてたなと思うんですけど、まあ皆若かったので、なんとかなりましたね。20代だったので。 喜多山氏: でもまあ、改善されて今の形に至るというところですね。 會津氏: そうですね。 喜多山氏: でも、確かにその2タイトルで御社のブランドイメージも完全に確立されましたよね。 會津氏: そうですね。そういう形でもう、私は恩は一生忘れない。ハハ…(笑) 喜多山氏: ご縁ですよね。いいご縁で成り立っているんだろうな、と思います。 會津氏: そうです、そうです。ありがたい限りです。 この2タイトルのおかげで、なんとか軌道に乗って、そこから黒字が続くようになりましたので……。 喜多山氏: なるほど、素晴らしいですね。 後編へ続く ▲今回の動画版『ゲーム人生酒場』第2回・前編の視聴はこちらから! インティ・クリエイツの新作ネコアクションゲーム『九魂の久遠』(5月30日発売予定)紹介映像はこちら! 「ゲーム人生酒場」シリーズ紹介 ▼第1回・前編 ▼第1回・後編
電ファミニコゲーマー:TsushimaHiro
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