アジア系学生の入学制限で提訴された米名門大学 背景にある「人種枠」とは?
アメリカ国内で名門大学として知られるハーバード大学とノースカロライナ大学チャペルヒル校が、アジア系アメリカ人学生の入学を不当に制限し、憲法で保障されているはずの「教育を受ける権利」を侵害しているとして、高等教育における人種優遇措置に反対するスチューデンツ・フォー・フェア・アドミッションズという団体から提訴されました。提訴された二校は「アファーマティブ・アクション」と呼ばれる特定の人種を優遇する措置に基づいて人種別に入学者数の受け入れ人数に制限を設けており、それにより本来ならば名門校に入学できるはずの学生が弾き出されてしまっているという問題が浮上しています。 スチューデンツ・フォー・フェア・アドミッションズはハーバード大学への進学を希望していたアジア系アメリカ人学生の例を挙げ、高校の卒業式で総代をつとめ、大学入学の際の参考基準として用いられる全国標準テストで満点を取ったこの学生が、人種枠の存在によって入学できなかったと主張。アメリカで長きにわたって議論されてきた、人種優遇措置と逆差別の問題は再び注目を集めることになったのです。
以前から存在した米大学の「人種枠」
アメリカの歴史に目を向けてみると、人種問題などに起因する高等教育の閉鎖性が以前から存在していました。人種隔離政策によって黒人が大学教育を受けることが困難だった19世紀に多くの黒人向け大学が誕生し、現在は「歴史的黒人大学」という名称で全米に約100校存在し、人種に関係なく学ぶ事ができます。しかし、白人と黒人といった簡単な図式ではなく、白人の間にも大学入学における制限が存在した時代がありました。 アイビーリーグで知られる名門大学が集まるアメリカ東部は、もともとWASP文化(White、Anglo‐Saxon、Protestant=白人、アングロ・サクソン、プロテスタント)の強い土地柄であったため、プロテスタントの白人ではない学生を入学させるべきか否かという議論が過熱。有色人種だけではなく、ユダヤ人やカトリック教徒、女性の入学についても制限を設けるべきとの声が主流となり、1920年だいから40年代にかけて、東部の名門大学のユダヤ系学生の数は大幅に減っていきました。1920年代にハーバード大学の当時の学長による「このままではユダヤ人に学校を乗っ取られてしまう」という発言は、当時の大学の閉鎖性を示す好例として現在もよく紹介されています。 まだアメリカ各地で目に見える形で人種差別が存在していた1960年代、当時のケネディ大統領は全てのアメリカ人に均等に雇用機会を与えるために大統領令を発令、均等な雇用機会を作り出すための委員会が設置され、その中で初めて「アファーマティブ・アクション」という言葉が用いられました。後任のジョンソン大統領は公民権法にサインし、アメリカは建て前とはいえ、全ての人種に平等な国へと変化したのです。その際にマイノリティの低所得者層を教育というツールで引き揚げていくために、各大学に一定の人種枠が設けられたのですが、枠の存在によって成績優秀者が多い人種グループの全員が大学に入学できないという問題が発生するようになったのです。