杉江松恋の新鋭作家ハンティング 北沢陶『をんごく』は満点をつけられるデビュー作
満点をつけられるデビュー作である。 北沢陶『をんごく』(KADOKAWA)は第43回横溝正史ミステリ&ホラー大賞の受賞作だ。この新人賞には他に読者賞とカクヨム賞が設置されているのだが、それらもすべてこの作品が獲得した。横溝正史ミステリ大賞と日本ホラー小説大賞が合併し、この主催形式となってから今回で五回目になる。五回のうち受賞作が出たのは三回で、優秀賞止まりが二回、受賞作となった『火喰い鳥を、喰う』の作者である原浩、『虚魚』の新名智はその後も順調に作品を発表しており、実力の程を証明している。北沢陶はその両者に匹敵、いや凌駕するかもしれない実力者であろう。『をんごく』はおもしろい、おもしろすぎるのである。 大正年間の大阪に舞台は設定されている。大阪の中でも船場は、商人文化が発達した結果、生活習慣から言葉遣いまでが独自のものを使うようになった。最近では芦辺拓『大鞠家殺人事件』(東京創元社)が戦前の船場で代々営業を続ける商家を、外界から隔絶された館と見做してその中で連続殺人事件が起きるという趣向で話題となった。同作でも船場の文化が見事に再現されていたことに感心したのだが、分量ではその三分の二程度の本作では、まるで出汁のように濃縮された形で商人の気質というものが表現されている。 〈私〉こと主人公の古瀬壮一郎は、雇人男女合わせて三十人という大店の長男として生まれたが、家業を継がず、挿絵や広告図案を描いて生計を立てる商業画家になった。故郷を離れ、東京で暮らしていた壮一郎は、実家の世話により、幼馴染の倭子を妻に迎える。結婚から一年後、夫婦の静かで幸せな日々は突如として破られる。1923年9月1日の午過ぎに発生した関東大震災がその理由である。家屋の火災に巻き込まれた倭子は、命は取りとめたものの足が不自由になってしまう。荒廃した東京から大阪に戻った夫婦だったが、無理をしたのがよくなかったのか、倭子は患いつき、やがて死んでしまう。「お足(みや)ばっかり熱うて、他のとこ寒うて、なんやよう分からへん」というのが、壮一郎が最後に聞いた倭子の言葉だった。 「行んでもうた」倭子に再び会いたいと、壮一郎が四天王寺の巫女町にやってくる場面から物語は始まる。倭子を降ろしてもらうためだ。応対した巫女は、倭子の声で壮一郎の耳に聞き覚えのない歌を口ずさんだ。「奥さんな、ほんまに行んでもうたんでっか」と巫女は不審がる。通常の霊とまったく異なり、倭子は降ろしにくかったというのだ。その日から壮一郎の住まいには異変が起き始める。何者かが家を訪ねてくるようになったのだ。それが倭子であると壮一郎は直観する。臥所に訪ねてきた者に名を呼びかけられ、その手で触れられた。壮一郎は涙する。 冥界から戻ってきた者は生あった時とは決して同じではなく、別物と化している。そのことが恐怖の感情を催すか、それとも込み上げる哀しみとなるか。『をんごく』はそうした物語である。倭子が帰還したことにより、壮一郎の周囲には思わぬ影響が広がり始める。ここで登場するのがエリマキという人物だ。壮一郎の知人が、倭子と同じように現世を彷徨う死者となった。エリマキはその知人を食ってしまったのだ。彼は霊を食って生きているのである。倭子の霊もまた食らうと宣言したエリマキを壮一郎は警戒し、自宅に侵入してこないように図るが、彼の予想を遥かに超えた事態が起きてしまう。そのことによって壮一郎は、エリマキと行動を共にせざるをえなくなり、倭子の死に端を発する怪奇現象の根源が何であるかを一から探り始めるのである。 横溝正史ミステリ&ホラー大賞は、名が示すとおり、推理と怪奇の両ジャンルにまたがった新人賞である。本作の骨格は冥界から戻ってくる霊を描く怪奇小説だが、同時に推理小説の構造も備えている。主人公の周辺で起きていることの原因を突き止めるという謎解きが物語を支える一本の柱になっているのだ。主たる謎はそれだが、他にも小説の構造体を受け止める役割をしている支柱がある。たとえば、エリマキは顔がない存在として描かれる。壮一郎の目にはそう映るのだが、他の人間にとっては違うのである。自分にとって大事な存在の顔になるらしい。初めに倭子を降ろした巫女には、亡くした愛児の顔に見えるという。この違いはどこからくるものか、という謎が成立する。副次的で一見無関係に見えるが、実はこの相貌の謎も全体の構造体の一部なのである。そうした形で物語は精緻に設計されている。 すべての謎が解けたときに襲い来るのは深い哀しみだ。中心にあるのは壮一郎と倭子の関係であり、二人が死別して二度と夫婦としては暮らせないということがその哀しみの源泉になっている。謎解きの論理と、物語の悲哀とがこれ以上ない形で結合している。しかもそれだけではなく、エリマキという異能の持ち主を登場させたことによる伝奇ロマン的な活劇の要素もあり、船場文化を綴った民俗奇譚の色もあり、あらゆるものが結末を盛りあげるための撚糸となって集束していく。読みながら心が躍るのを感じた。派手ではなく、どちらかといえば穏やかな筆致であるが、心の中に火を灯すには十分なほどの熱量がある。 船場。そう、船場文化なのである。物語は船場以外のどこでも成立しなかっただろうという強い確信を抱かせるほどの、場所の説得力がある。壮一郎は孤独な主人公である。彼がそうした境遇になったのは、名家に生まれながら、その中心にいることができず、はぐれ者として外に出てしまったことが理由としては大きい。これは奇譚や冒険小説の主人公を描く際の常套手段なのだが、壮一郎がそうなった原因は船場だからである、と説明される――独自の風習が根強い船場では「ぼんが働いたら間違う」という考えから、長男が店を継ぐより、見込みのある者を養子に迎えて商売を任せることが多かった。だからいずれ店は姉の婿が継ぎ、私は父が亡くなれば家を出ることが生まれたときから決まっていた。 生まれながらにして家から出されることが決まっていた主人公が、自身の出自にも関わる謎に向かい合う物語なのである。船場の民俗は物語と密接に結びついた形で語られる。英国で誕生した幽霊小説の骨格に船場の民俗という肉付けが施されているのである。 『をんごく』という目を惹く題名の意味については、それが「遠国」から来ていることを記すにとどめよう。どこか遠く、自分が今いるこことは違うところへと去っていく者というイメージが本作を支えている。その寂しさと郷愁が強い風となって物語の中に吹いているのである。風は心を弄び、思いもよらなかった場所へと誘う。 やはり完璧である。巻末の選評では選考委員の米沢穂信が「この小説に授賞できなければどうしようと焦りさえ覚えていた」と書いている。その気持ち、痛いほどよくわかる。『をんごく』は人に読まれるべき小説であり、北沢陶は世に出るべき書き手なのだ。
杉江松恋