【毎日書評】結論から述べる伝え方の弊害。それで本当の思いは伝わっているの?
わかりやすく話したり、相手の話をきちんと理解したりすることは、いうまでもなくコミュニケーションの基本。それは間違いないけれど、でも、どこかで無理をしていると感じている人も多いのではないか? 『句点。に気をつけろ』(尹雄大 著、光文社)の著者は、そんな疑問を投げかけています。たとえばその際たるものが、「AはBである」というように句点(「。」)で言い切る“おさまりのよい滑らかなことば”が評価されがちだという風潮。 よく考えたらこれは変ではないか。深いところで感じたことや誰かのことを思う気持ちは、そうそう言葉にならない。声が裏返ったり、つっかえたり、言い淀んだりする。身体の奥底から湧いてくる言葉は口から出るまでに時間がかかる。曲がりくねった道を通ってようやく言葉になる。人それぞれのタイムラインがあるはずだ。そうなると淀みなく「AはBである。」といった感じで句点「。」をつけて言い切れるのは、なぜなんだろう? と気になってくる。(「まえがき」)より 自分の感じていることや思いに句点をつけようとすることで、私たちはなにを見失っているのか? そもそも、きちんと話せているのか? 理解できているのか? 私たちはそういったことに気を取られがちですが、相手の顔色を気にすることよりも大切なのは、まず「自分の身体でちゃんと感じているか」ということなのではないか? もしなめらかに話せないのなら、それは自分の身体が「句点をつける話し方」を拒んでいるからなのではないか? 本書の根底には、そうした思いがあるわけです。きょうは第二章「辻褄が合わなくてもいい」のなかから、「効率よく話せば、本当の思いは伝わるのか」という項目に注目してみたいと思います。
ことばを「効率的な伝達」に置き換えることの問題点
普段から推奨されているコミュニケーション──結論から述べる。時系列をはっきりさせる。エビデンスを重視した客観的な話し方を心がける──が、働く人たちに微妙な不安を与えているかもしれない。 企業研修の講師として呼ばれた際、著者はそう感じたそうです。 誰に対しても伝わりやすく、効率的な話し方を心がけるべきだという考え方は、当然のこととして広く認識されています。ビジネスシーンにおいても、それは常識と考えられているはず。 なのになぜ、それが微妙な不安をもたらすのでしょう? 著者はこの問いに対し、「人と人とが出会ってことばを交わすという“人間にとって原初的な体験”を、どこかないがしろにしている感覚を与えているからではないか」と述べています。 言葉を交わすというのは、身振り手振りや声のトーン、目を細めたり、じっと見たり、口元が綻んだり歪んだりとか、いろんな身体の表情を伴ってのことだ。いわば、その人丸ごとの出来事がその時間と空間に現れ、それを互いに味わう。 それを効率的な伝達に置き換えてしまったとき、たとえ「ありがとう」と喜びを表した言葉と笑顔が添えられていても、「感謝の気持ちを表す言葉」をただ伝えているだけという感じが出てしまうんじゃないか。(49ページより) セリフを棒読みしているように感情が平坦なわけではなく、声の抑揚がついていたとしても、「喜んでいる」という“予定された感情を再現している感じ”が漏れ出てしまえば、なんらかの違和感が生まれても当然。また、そういうことは意外と相手に伝わるものでもあります。 そうした話法に私たちは慣れていますが、その一方、自分とのギャップに気づく機会も日常のなかには多くあるはず。伝わりやすさを重視して話してはみたけれど、内心では「ちょっと安易ないいかたになってしまっているな」と感じたりすることは、誰にもあるのです。 しかし、感覚的なズレがあるにもかかわらず、相手に「わかります。~ってことですよね」などといわれると、さらにモヤっとすることになってしまうでしょう。 たしかにビジネスにはビジネスの話法がありますから、「ちょっと違うんだけどなあ」というような個人的な感覚は言語化しづらいもの。 とはいえ、「この場では、それは大事なことではない」と、思いを打ち消すことを身につけてしまったとしたら、それは「感じていることや思っていることが口に出せない状態」を当たり前にしてしまうということ。しかし、それは苦しいことでもあります。(48ページより)