【ネタバレレビュー】真田広之演じる虎永が本領発揮!「SHOGUN 将軍」 第3話は手に汗握る脱出劇に大興奮
『トップガン マーヴェリック』(22)の原案者が製作総指揮、いまや世界的俳優となった真田広之がプロデュース、主演を務めるディズニープラスSTARのオリジナル・ドラマシリーズ「SHOGUN 将軍」が配信中。1980年にアメリカで実写ドラマ化され、驚異的な視聴率をたたきだしたジェームズ・クラベルによるベストセラー小説「SHOGUN」を、ハリウッドの製作陣の手で新たにドラマ化。徳川家康、三浦按針、細川ガラシャら、歴史上の人物にインスパイアされた「関ヶ原の戦い」前夜を舞台に、陰謀と策略が渦巻く戦国の時代を、壮大かつ圧倒的な映像で描きだすスペクタクル・ドラマシリーズとなっている。 【写真を見る】「SHOGUN 将軍」勢力図がわかる!第3話人物相関図(ネタバレあり) MOVIE WALKER PRESSでは、本作の魅力を発信する特集企画を展開。本稿では第3話を、ライターの渡辺麻紀がレビューする。 ※以降、ストーリーの核心に触れる記述を含みます。未見の方はご注意ください。 ■これぞ“ハリウッド製の時代劇” これ、本当にメイド・イン・ハリウッド?そう問いかけたくなるドラマシリーズが「SHOGUN 将軍」だ。時代は1600年代。舞台は群雄割拠状態の「日の本」こと日本。ここで日本と西洋、2つの価値観の出会いが描かれる。 それがもっともわかりやすい形で表れているのが言語なのだが、本作に登場する日本人はちゃんとした日本語を喋る。海外の作品で日本人の役を他国のアジア人が演じ、ヘンな日本語になることがままあるが、そういうことは微塵もない。 イギリス船の乗組員の一人、ジョン・ブラックソーン(のちに按針という名で呼ばれる)は通訳(通詞)のカトリック教徒、鞠子(アンナ・サワイ)を通して徐々に日本語を覚えていくというように、言語に対するこだわりには驚かされる。それは役者たちの立ち居振る舞い、美術やコスチュームでも徹底していて、メイド・イン・ジャパンの作品よりしっかり時代劇をしていると言ってもいいほどだ。 聞くところによると、そういうことが可能になったのは主人公の虎永を演じる真田広之がプロデューサーを務めているからのようだ。日本の時代劇にもハリウッドにも通じている彼が、これまでハリウッドで流通していた日本のサムライ像、映画界の価値観を正すべく奮闘したからだと言われているが、それも納得の仕上がりになっている。 それが可能となったのはおそらく、数年前からハリウッドで吹き荒れている新しい風、ダイバーシティのおかげだろう。これまで白人中心に動いていたハリウッドで、あらゆる人種、国籍、ジェンダー、それぞれの価値観に寄り添って行くべきだというムーブメントが起こり、こんなリアルな“ハリウッド製の時代劇”が生まれたのだ。 ■稀代の策士・吉井虎永に翻弄される! というわけで待望の第3話である。 前回、自分の寝床を按針(コズモ・ジャーヴィス)に譲り、自らは彼の部屋で寝ることにした虎永(真田)は布団を偽装して刺客の攻撃を見事に避けるのだが、ここで明らかになるのは虎永の知恵者っぷり。側近たちは、虎永を狙った石堂(平岳大)の仕業だと言うが、彼だけはポルトガル人の手先となったキリシタン大名たちにイギリス人の按針が狙われると予測し、寝床を変更していたのだ。 このシリーズのおもしろさの一つには、この虎永の知恵者っぷりと策士っぷりがある。彼には、どういう状況になったとしても、その先の先の先の先くらいまでを見つめる能力が備わっている。人間に対しても、敵と味方と二分化するのではなく、その人物の敵の部分と味方の部分を分析する冷静さをもっている。未熟者の息子・長門(倉悠貴)を「敵も味方も駆け引き次第。この世で頼めるのは己のみ」とたしなめるこの言葉どおりに彼は乱世を生き抜いていると言っていい。だから、石堂につくか、あるいはこのまま虎永のもとに留まるのか、策を巡らす樫木藪重(浅野忠信)に対してもすべてを見抜いているような表情を見せ、彼を翻弄する。役者が何枚も上手なのである。 簡単に言ってしまえばこの虎永、決して人を信用しない猜疑心だらけの武将なのだが、当人はその理由をこう言っている。「(幼少期に)人質になったことで学んだ真実は、周囲は敵だらけで友はいない」。さらに「本心を見せれば死に通じる」とも。 そうやってサバイバルしてきた彼に着目すると、物語はひと筋縄ではいかなくなる。彼の発する言葉の裏にはどういう意図が潜んでいるのか?彼が下す命令の真意はなんなのか?そして、彼のこの表情はなにを意味しているのか?観ているほうもそれを考えながら鑑賞するわけだから、何気ないシーンで目が離せなくなり、さりげない会話でも耳をそばだててしまう! ■山林での地上戦に海戦も!手に汗握る大坂からの脱出劇 今回のエピソードでその片鱗が伺えるのは“虎永の大坂脱出作戦”だろう。この地を離れることを禁じられていた彼が奥方たちの出立にまぎれて籠に潜むのだが、その作戦をほんの一部の人間に知らせるのみでやり遂げようとする。途中、邪魔が入るものの、彼の作戦に気づいた按針の気転のおかげでどうにかクリア。その道行に同行した藪重には「(作戦を)教えてほしかった」と言われるが、賢い虎永は「敵を欺くにはまず味方から」ということを知っていたというわけだ。 この脱出作戦には、そんなサスペンスから始まり目的地の網代が近づくにしたがって林のなかで展開する地上戦、さらに2隻の商船と無数のボートを使った海戦まで用意されている。こういうアクションはさすがハリウッド。当時の武器は刀や弓がメインとなり接近戦も多いのだが、血のりや血しぶきの表現も日本製作品よりリアル。そして、2隻の商船が先を競って並走するシーンは迫力たっぷりだ。 虎永が助かるのは、ここでも按針の尽力によるもの。船の舵手である彼がその技術を活かして船を操り敵の包囲を打ち破ったからだ。石堂やキリシタン大名の追撃をかわした虎永は彼を自分の仲間として取り込んで行く。じっくりと彼の言動を観察し、自分に役立ってくれる存在なのかを見極めてからの決断だが、同じことが按針にも言える。誰を信じていいのか、はたまた誰が敵で、誰が味方なのかもわからないなかで、彼が白羽の矢を立てたのも虎永だったということだ。話す言語も価値観もまるで異なる2人の関係性がどう育って行くのか、このエピソードで本当のスタート地点に立ったことになる。 最後にもう一つ、本シリーズで驚くのは当時の日本人、とりわけサムライや彼らを取り巻く人々の価値観や人生観、死生観を丁寧にすくいとっているところだろう。すぐに「死」を口にする彼らとは対照的に按針は「こんなところで死んでたまるか!」と「生」に執着しまくる。実のところ、虎永と按針を結び付けているのはこの人生観なのではないかと思う。策を練り、あらゆる知識を動員させて敵を交わしている虎永も「生」に執着していると言えるからだ。虎永は当時の武将のなかでは、そういう意味で異色の存在だったのかもしれない。本シリーズが、これまでのサムライ映画や時代劇とはひと味もふた味も違うのは、アクションや時代考証の丁寧さのみで言っているのではない。こういう価値観の描き方にこそあるのだ。 文/渡辺麻紀