甘利大臣辞任会見(全文1)現時点での調査結果の概要
現時点での調査結果の概要
まず本件記事の概要については、すでに皆さんご案内のことかと思いますので、この場で説明することはいたしません。早速現時点での調査結果の概要をご説明申し上げます。 まず平成25年11月14日の50万円、および平成26年2月1日の50万円の授受についての私の認識について申し上げます。平成25年11月14日の大臣室における表敬訪問、および平成26年2月1日の大和事務所における面談については、日々多くの面談の日程があること、そして時間が経っていることなどから、個別な件についての詳細な記憶はありません。記憶の限りで説明をしますと、まず大臣室で菓子折りの入った紙袋をいただいたと思います。社長らが退室されたのちに、秘書から紙袋の中にのし袋が入っていましたとの報告がありました。それで私から秘書に、政治資金としてきちんと処理をするようにと指示をしたと思います。 次に大和事務所での面談は、所長で、地元事務所所長であるA秘書からあらかじめ、総務担当者が大臣室訪問のお礼と、病気の快気祝いに来られると聞いておりました。お礼とお祝いの話のあと、総務担当者の私生活に関する雑談などをしたあと、総務担当者がS社の敷地から産廃が出て困っているとの相談がありました。私は、地主が責任を持つんじゃない? と話したように思います。ただ、資料を持参されていたので、東京のE秘書に渡しておいてくれとA秘書に指示をし、話を終えました。そして帰り際に、総務担当者が菓子折りの入った紙袋と封筒を差し出しました。大臣室訪問の御礼と、病気を克服して頑張れという政治活動への趣旨だと思い、これを受け取り、A秘書がその総務担当者を送って部屋に戻ってきた際に、菓子折りと白い封筒をA秘書に渡し、適正に処理しておくようにと指示をいたしました。 週刊文春は、大臣室にて私が、お土産の袋から現金の入った封筒を取り出し、スーツの内ポケットにしまったと、二度にわたって報道しました。実はこの部分が私の記憶と週刊文春が二度にわたって報道した内容の違いの1つです。しかも音声など、決定的な証拠が全てそろっているとの報道でありました。お客の前で紙袋から現金の入った封筒を取り出し、スーツの内ポケットに入れる、という行為が本当だとしたら、政治家以前に人間としての品格を疑われる行為であります。そんなことはするはずがありません。以上が本事案にかかる私、甘利明の認識であります。 次に、本事案についてA秘書が弁護士に対して説明した内容について申し上げます。これから申し上げる調査結果は、元東京地検特捜部の検事である弁護士が、秘書や経理担当者などの関係者から直接聴取し、関連資料等を確認された結果、取りまとめられた報告書に基づいてそのまま申し上げます。 平成25年11月14日の50万円の授受の状況等でありますが、S社との総務担当者との間で、総務担当者が千葉で後援会をまとめてくれるという話が出て、その話を盛り上げていくため、一度甘利大臣に会っていただこうという話になった。11月14日に大臣室で、甘利大臣との面会の予約を入れた。甘利大臣には面会の直前に、甘山会に入っていただいた企業の方が表敬訪問に来た、という程度の話のみで、UR等の件は話していない。 国会見学、昼食ののちに大臣室で面会をした。総務担当者側は、S社社長、その知人女性と総務担当者がいた。もう1人いたかどうかは覚えていない。大臣側は甘利大臣のほか、A秘書と大臣の政務所管であるE秘書がいた。大臣室には30分くらいいたと思う。甘山会について千葉をまとめますからという話があったが、URの話が出た記憶はない。総務担当者側は、S社社長が主に話をしていた。面談のどこかで社長が、お土産と就任祝を大臣に渡した。A秘書の記憶では社長がご祝儀袋を取り出し、お土産の入っている袋に入れ、その袋ごと大臣に渡していたと思う。大臣がその祝儀袋を袋から取り出したことや、ポケットに入れたような記憶はない。 以上が、平成25年11月14日の50万円の授受の状況等についてA秘書が弁護士に説明した内容であります。 次に、平成26年2月1日に面会を設定した経緯および50万円の授受の状況等について、A秘書が弁護士に説明した内容を申し上げます。 1月21日午前11時30分ごろ、総務担当者が相談したいことがあると言い、大和事務所にやってきた。S社が使っている土地上の社屋を移そうと思い、新しい土地を掘ったら産廃が出てきたので、S社の敷地の産廃撤去を企業庁にお願いしたいという話だったと思う。総務担当者が大臣に会って話がしたいというので、2月1日、大和事務所で大臣のアポを取った。ただ総務担当者は産廃の件よりは、どちらかと言えば前回、大臣室に行ったときは社長ばかりが話をしていて総務担当者の影が薄かったので、今度は同人が個人としてお祝いをし、大臣と付き合いたいという希望であった。