ご存じですか? 「土蜘蛛」 ヤマト政権が差別していた集団が、いつしか「鬼」になった
源頼光が退治したことで有名な「土蜘蛛」。ヤマト政権が差別していた集団も「土蜘蛛」と呼ばれるが、関係はあるのだろうか。鬼としての「土蜘蛛」はどのようなものなのだろうか? ■時代を超えて数々の伝説を残す 日本を代表する鬼 【時代】古代 【出典】『古事記』『日本書紀』『常陸国風土記』など多数 【地域】全国各地 ヤマト政権は、古い時代に自分たちの信仰と異なる信仰をもつ集団を「土蜘蛛(つちぐも)」と呼んで差別していた。平安時代に入ったあたりから、土蜘蛛が異形の鬼と混同されるようになっていった。 そして平安時代前半に東北地方経営がすすんだことによって、それまで蝦夷(えみし)と呼ばれていた人びとも、中央の信仰を受け入れるようになっていった。 今でも東北地方の一部には、縄文時代の流れをひく信仰を伝える人びとが残っている。そのため長髄彦(ながすねひこ)を祀る神社や、縄文的な自然神を「鬼」の形で信仰する神社もみられる。 能に『土蜘蛛』という演目がある。それは大江山の鬼退治で知られる、源頼光を主人公としたものである。 源頼光(よりみつ)の時代にあたる平安時代なかば過ぎの京都では、縄文時代風の信仰にもとづく土蜘蛛の概念は忘れられて、多くの手足をもつ鬼が土蜘蛛とされていたのだろう。 源頼光の土蜘蛛退治の物語は、次のようなものである。 「源頼光がある時、正体のわからない病気にかかった。医者に見せたが、病気を治療する手だてがみつからない。ある夜、頼光が苦しんでいると、かれの侍女が頼光の近くに怪しい気配(けはい)を感じた。 彼女がそのことを頼光に告げると、頼光は愛刀膝丸(ひざまる)を抜いて、わけのわからないもののいるあたりを斬りつけたという。すると確かに、手応(てごた)えがあった。刀をふるったあと、頼光の嫌な気分は一気にはれた。頼光を悩ませた怪しいものは去っていったらしい。 明るくなってから見ると、頼光が寝ていたあたりから家の外へと、点々と血の跡がついていた。頼光は、藤原保昌(ふじわらのやすまさ)という武勇の士に血の跡を辿らせた。保昌は、ともに大江山で鬼退治をした友である。 このあと保昌が、怪しい血の跡が北野天満宮の裏の古塚(ふるづか)まで続いていたと報告してきた。そのため頼光は、家来を引き連れて北野に向かった。そして古塚を掘り起こしたところ、そこから何本もの長い手足をもつ怪物が出てきて大暴れした。 頼光は家来に命じて、みなで囲んで矢で射かけ、その怪物を討ちはたした。その化け物は、土蜘蛛であったという」 頼光が斬った土蜘蛛は、『古事記』、『風土記』などに出てくる土蜘蛛とは別のものであるらしい。頼光に祟(たた)った化け物は、病気を起こす疫鬼(えきき)に近いものであった。 監修・文 武光誠 歴史人2023年6月号「鬼と呪術の日本史」より
歴史人編集部