ある日突然、学校を「拒絶」する子どもたち…いま日本の学校で起きている「深刻な事態」
規格化される教育現場
まず第1章では、子どもたちが「右へ倣え」といわんばかりに従わされ、規格化される教育現場を追う。小学2年生の児童が図工の時間に皆と同じように絵を描けなかったことで、担任からの攻撃の対象にされていく。児童が忘れ物をすると担任は名指しで「あなたのせいで授業をしない」と言う。 母親が決死の覚悟で子どものランドセルにボイスレコーダーを忍ばせると、録音された音声から担任の言動が次々に明らかになるが、校長や教育委員会に相談しても状況は変わらない。 こうした現状から公教育に失望し「公立の学校はダメだ。中学校も期待できない」と、私立中学の受験を選択する傾向が強まる。続く第2章では公立学校への不信感から過熱する中学受験についてルポする。首都圏では、小学生の約5人に1人が私立や国立の中学を受験して進学している。子どもたちは受験塾に通い、先取りして勉強を終わらせるため、学校以外のほとんどの時間を塾の勉強に充てている。 就職氷河期に苦しんだ親世代は格差社会の当事者だ。自身の苦労から子どもを「安定したレール」に乗せたいと心配する。それが中学受験の過熱の一因にもなっている。格差社会は早期教育を助長し、保育園運営会社が中学受験塾を買収するに至っている。そうした環境のなかで、子どもたちは次第に荒れていく。子どもの将来のためと多額の費用をつぎ込む、はき違えた“教育投資”について問題提起する。 子どもの教育環境を作っているのは大人だが、大人の都合によって子どもたちの教育環境が悪くなるばかり。第3章で公立の小中一貫校ができたことによる制度疲弊ともいえる現場を追う。 2016年4月に改正学校教育法が施行されると、小・中9年間の義務教育を一貫して行う新たな学校の種類となる「義務教育学校」の設置が可能となった。文部科学省の「学校基本調査」によれば、公立の義務教育学校は制度ができた2016年度に22校だったものが2024年度には232校へと増加している。小学校から中学校に移った時のギャップを解消するなどのメリットもあるが、小中一貫校となって大規模化することや小学生のうちに“早期教育”が取り入れられるデメリットが大きく、見過ごせない。 小中一貫校では5年生から中学スタイルをとるケースが少なくない。授業時間は小学生は1コマ45分だが、小中一貫校の多くで5年生からは中学生として1コマ50分で進められ、教科担任制が導入される。部活や生徒会も始まる。小学生の最高学年が4年生とされ、5年生以降は“早期教育”が実施される。小学校教員が5~6年生を受け持つと中学スタイルに組み込まれるため、負担が重くなる。 いつしか都内の教員の間では、中高一貫校のある特定の地区への異動が「島送り」「服役中」と揶揄されるようになった。 「義務教育学校」の増加による“小学校”の消失を含め、小学校がなくなることは小学生から小学生らしさを奪い、教員からもやりがいを奪っている。政治家が自身の功績を得るために“教育改革”を行い、学力テストの結果ばかりを重んじるあまり、教員にとっても「学校がつまらない」ものとなっている。 教育の質を問うには教員の労働環境の問題は無視できない。なかでも若手の早期離職は深刻で、教壇を降りたまま公教育の世界に戻らないことが人材不足に拍車をかけている。 第4章では改めて、教員が置かれる教室や学校の現実を見る。そして、柔軟な学級運営をしようと奮闘し「教育の自由」を実践する教育現場を紹介する。義務教育の小中学校で、もしいい学校と巡り合わなかったとしても、やり直しはいくらでもきく。工業高校に入って初めて勉強の楽しさを知る生徒が多く存在し、工業高校に公教育が目指すべきヒントがありそうだ。小学校教育はいわゆる「いい学校、いい会社」に入るためにあるわけでない。学ぶ楽しさを知ることが質の高い教育であるはずが、それが叶わない。 私たちが忘れがちな、そして否定しがちな「子どもらしさ」とは何か、終章で問う。子どもが親や教員の言うことを素直に聞き、計画的に勉強してドリルを解き、大人が敷いたレールを歩く。それは、親にとっての安心でしかないのではないか。「遊んでいるのは時間の無駄だ」と、子どもが大人を真似て管理された中で失敗しないで生きていくことを求められがちだが、子どもにとってのWell Being(幸福であること)とは何なのか。 『ルポ保育格差』で記した「ほいくえん いきたくない せんせい、やさしくない……」の先の小学校で、「学校がつまらない」ものになっている。子どもたちが「学校がつまらない」と拒絶する現実を考える。
小林 美希(ジャーナリスト)