「何でも兵器になる」福島・いわきから米国を攻撃した風船爆弾 教員目指す地元高校生が史実に向き合う
太平洋戦争の終結から80年を前に、あまり知られていない地元の史実に向き合う高校生が福島県いわき市にいる。磐城桜が丘高3年の山口珠玖有(みくり)さん(17)は、同市勿来地区などを拠点に米国本土を直接攻撃した風船爆弾に関心を抱き、書籍や証言から旧日本軍の極秘作戦をたどった。遠い存在だった戦争が身近になり「本当にやってはいけない」と恐ろしさを実感。将来教員になり、子どもたちに伝えていきたいと語る。(いわき支局・坂井直人) [風船爆弾] 和紙をこんにゃくのりで何層にも貼り合わせて造った直径約10メートルの気球に焼夷(しょうい)弾をつるした重さ約180キロの無人兵器。1944年11月~45年4月、福島県いわき市と茨城県北茨城市、千葉県一宮町の各基地から計9300発を放って1000発近くが北米大陸に届いたとされ、6人が犠牲となった。山火事が狙いとされるが被害は大きくなかった。一方、国内の基地では事故による犠牲者も出た。 ■「和紙で気球?」浮かぶ数々の疑問 歴史好きの山口さんが風船爆弾を知ったのは、いわき市勿来関文学歴史館で9月まで開かれた企画展を紹介する新聞記事を学校で読んだのがきっかけ。いわきが戦争に深く関わっていた事実に衝撃を受けた。 「和紙で気球?」「偏西風を利用?」。数々の疑問が浮かぶ。本で概要や仕組み、放球基地の選定理由などを調べた。文学歴史館のギャラリートークに参加し、学芸員の解説に耳を傾けた。 驚いたことに、山口さんが通う高校の前身校の女子生徒たちが、勤労動員で親元を離れて風船爆弾の製造に関わっていた。何をしているかも教えられないまま、体調不良や睡眠不足、栄養失調になっても和紙を貼る過酷な労働を続けていた。 ■「戦争してはいけない」メッセージ伝えたい 「兵器という感じがしなかった。きれいだった」。学芸員に依頼して話を聞かせてくれた80代の女性は、気球が飛ぶ様子をそう語った。戦後、余った布をボールにして遊んだという。空襲警報のたびに逃げ回る不安な生活、特攻隊に志願して帰って来なかった兄、教育勅語を読み上げる校長…。女性は「恥を忍んで」と語りつつ協力してくれた。 「子どもが遊ぶような楽しいイメージの風船も、何でも兵器になる。天皇や国のためと働かされるなんて今では考えられないが、当時は当たり前だったのではないか。教育の影響は大きい」と山口さんは思う。 「戦争をしてはいけない」。女性から受け取ったメッセージを一人でも多くの人に真剣に伝えたい。「まず、戦争について背景とともに知らないと」。市史に残る日記などを読み、庶民の思いを考察している。 ■茨城・北茨城 風船爆弾の遺構、保存に課題 80年前の太平洋戦争末期、米国本土を狙って放たれた風船爆弾。福島県いわき市勿来地区とともに基地となり、連隊本部も置かれたのが隣の茨城県北茨城市だ。いわきでは見られない遺構などがあると聞いて訪ねると、保存や伝承の課題に直面していた。 北茨城市の大津基地には18カ所の放球台などが整備されたとされる。草地を入ると、直径10メートルほどの遺構が現れた。「福島、茨城、千葉の3基地跡に現在唯一残るコンクリート台です」。案内してくれた同市の穂積建三さん(80)が語る。 近くには鎮魂碑がある。大津、勿来でそれぞれ誤爆事故によって兵士が犠牲になり、元々は地元の女性が中心となり木碑を建てて弔った。 穂積さんら有志がボランティアで周囲の除草や来訪者の案内に取り組むが、高齢化で継続できるかどうかを不安視する。関係者は2018年、野外を展示場に見立てた「北茨城平和ミュージアム構想(仮称)」を市に提言。風化が進む遺構の保存、説明板の設置などの環境整備を求めたが、実現していない。 穂積さんは「負の遺産だからと積極的に残そうとしていないのではないか。次世代に平和を語り継ぐ仕組みが必要だ」と訴える。 風船爆弾が飛んだ太平洋を望む長浜海岸に立つ「わすれじ平和の碑」には、強い願いが刻まれている。 <今はもう 呪いと殺意の武器はいらない 青い気球よさようなら さようなら戦争>
河北新報