「日系社会は日本の宝」と言った安倍元首相の思いはどこへ?外国人労働者の象徴、日系ブラジル人たちの”今”
日本政府が出入国管理及び難民認定法(入管法)を改正し、日系人の出稼ぎを受け入れ始めたのは平成になった直後の1990年のことだった。バブル景気によって深刻化した人手不足を緩和する目的からである。 以降、南米諸国などから来日する日系人が急増した。その中心を占めたブラジル出身者は、2000年代後半には30万人を超えるまでになった。「外国人労働者」としては今ではアジア諸国出身の「技能実習生」が代名詞だが、この頃の実習生(当時の名称は「研修生」)は10万人にも満たない。「日系ブラジル人」こそが外国人労働者の象徴だったのだ。 しかし、08年秋に起きたリーマン・ショックで状況が一変した。日系ブラジル人たちは主に自動車など製造業の下請け工場で派遣労働に就いていた。そんな彼らが真っ先に派遣切りの対象となる。多くの人が日本から去り始め、12年末には日系ブラジル人の数は20万人を割り込んだ。 その後、日本の景気は回復し、バブル期を凌ぐほどの人手不足が起きている。だが、日系ブラジル人は昨年末時点で21万1840人と、ピーク時の3分の2程度にとどまっている。一方、実習生は40万人を超え、19年に導入された在留資格「特定技能」で就労中の外国人も元実習生を中心に21万人近くに上る。とりわけベトナム人は在留者が56万人以上と、この10年で8倍にもなった。にもかかわらず、なぜ、日系ブラジル人たちは日本への出稼ぎを止めたのか──。
日系人よりも実習生が好まれる理由
名古屋駅から特急列車で約40分。岐阜県南部に位置する美濃加茂市(以下、美濃加茂)には、かつて群馬県大泉町などと並ぶ全国有数の日系ブラジル人コミュニティが存在した。リーマン・ショック前、人口約5万5000人の同市に在住する日系ブラジル人は3800人に達した。それが今年1月時点の数は2164人に過ぎない。 「この辺り、ずいぶん寂しくなったね。出井さんが初めて来た頃とはだいぶ違うでしょ」 市内中心部にあるJR美濃太田駅前の商店街を車で走らせながら、旧知の日系ブラジル人2世、林田剛さん(63歳)が私に語りかけてきた。林田さんは1980年代から日系ブラジル人の人材派遣業を手がけ、現在は美濃加茂に隣接する可児市で同胞向けのスーパーを経営している。 時刻は午前10時を回っていたが、商店街に人はまばらだ。通りの両側に連なる商店も、半分以上がシャッターを閉めている。私が美濃加茂を初めて訪れたのは、2010年1月だった。リーマン・ショックの影響でブラジル人は減り始めてはいたが、商店街にはブラジルの大手銀行が支店を構え、ブラジル人学校や教会、ブラジル食材を扱うスーパーやレストランなどが並んでいた。だが、14年後の今、「ブラジル」を感じさせるものは何もない。 リーマン・ショックの5年後の13年、美濃加茂では「ソニー・ショック」と呼ばれる出来事があった。ソニー子会社の工場が閉鎖され、約800人の外国人従業員が仕事を失った。その大半が日系ブラジル人である。結果、美濃加茂の日系ブラジル人はさらに減る。 断っておくと、美濃加茂自体が衰退しているわけではない。全国の多くの自治体で人口減少が続く中、美濃加茂の人口は微かではあるが増えている。外国籍の住民の数も10%に達し、依然として全国屈指だ。フィリピン人やベトナム人など他の外国人が増えて日系ブラジル人の減少を補っているのだ。 外国人労働者には「安価な労働力」とのイメージがつきまとう。しかし日系人の賃金は実習生などよりも高く、日本人と変わらない。実習生とは違い、働く職種に制限がなく、転職も自由である。だから企業は、日系人よりも実習生を使いたがる。一方、日系人にとっても日本で働くメリットは減っている。林田さんが言う。 「昔であれば、日本で3年も働けばブラジルで家が買えました。でも、今はブラジルの物価も上がった。それなのに、日本で稼げるお金は全然増えていないんです」
出井康博