豊臣秀頼は豊臣秀吉の「実子」だったのか?─父親が誰かを秀吉はさして問題にしなかった?─
豊臣秀吉の後継ぎ・秀頼は秀吉の実子ではなかったという説がある。ここではこの説の真相に迫る! ■秀頼は記録上は秀吉の3人目の男児である 文禄2年(1593)8月3日、大坂城二の丸において、太閤・豊臣秀吉の愛妾(あいしょう)である淀殿(25歳か27歳)が、男児を産む。秀吉によって、「拾(ひろい)」と名づけられた。のちの秀頼である。 秀吉が正室・北政所(きたのまんどころ)に宛てた8月9日付の手紙によると、秀吉の側近・松浦讃岐守重政(まつうらさぬきのかみしげまさ)が、「棄児(すてご)は育つ」という当時の迷信に基づき、生まれた男児を拾ったことにする風習を実行。秀吉が「拾」と命名した。 「下々の者まで、決しておの字をつけてはならない。ただの、ひろい、と呼ぶように─」(意訳) と秀吉は北政所に述べていた。 朝鮮出兵の前衛基地・名護屋城をそそくさと出立した秀吉は、8月25日に大坂城に戻り、愛児「拾」と対面する。57歳にして再び得た男児であった。その欣喜雀躍(きんきじゃくやく/小躍りして喜ぶ)ぶりは、想像に難くない。なにしろ、世嗣・鶴松(つるまつ)が病死したのは、天正19年(1591)8月5日のことである。 記録の上で、秀吉の実子として確認される子には、織田信長の部将として、淀殿の実父・浅井長政(あざいながまさ)を滅ぼした功績で、長政の旧領のうち、江北三郡(坂田・浅井・伊香)を与えられた〝長浜城主〟時代にもうけた石松丸(いしまつまる/母は不詳、初代・秀勝)がいるものの、幼少期に失っていた。 したがって、秀吉に子種はなかったというのは、当てはまらない。 しかしそれ以来、鶴松誕生まで、子宝に全く恵まれなかったのも史実である。にもかかわらず、続けざまに男児が生まれた。そのため、鶴松と「拾」の父親は秀吉ではなく、別人ではないかとの噂が流れた。 母は間違いなく淀殿であり、彼女は妖艶(ようえん)な美女だが、淫蕩(行いがだらしない、淫ら)な婦人とされ、姦婦(かんぷ/夫以外の男と通じる女)と呼ばれるまでになってしまう。 このイメージの象徴が、「淀君」という呼称であった。そもそも「淀殿」(あるいは「淀の女房」)の呼称も、女城主として鶴松を産んだおりに、秀吉から拝領した山城・淀城の主としての仮称であり、大坂城二の丸に移ってからは「二の丸殿」、伏見城西の丸に入ってからは「西の丸殿」と呼ばれているが、「淀君」などと呼ばれたことは一度もなかった。 中世において女性に「君」をつけるのは、下々においては遊女を呼ぶおりのものでしかなかった。 淀殿を辱(はずかし)めているのである。 ■父親が誰かを秀吉はさして問題にしなかった? 秀吉は諸大名に、「拾」への忠誠を誓わせ熱愛した。「拾」に宛てた手紙には、「お目にかかりたくてならない。すぐにでも参って、口を吸ってあげよう」(意訳)とあった。「拾」への惑溺は、正気の沙汰ではなくなっていく。 一方、秀吉の老年期の病弱があった。信長のもとで、心身ともに無理を重ねた秀吉は晩年、衰弱が激しく、「咳気を患い」とある。労咳(ろうがい)だったのではないかとも言われている。 秀吉は愚痴っぽく、癇(かん)を立てることが多くなっていく。関心は「拾」だけであり、慶長元年(1596)には、4歳の「拾」を秀頼と名づけて元服させている。このため、淀殿は愛児の「おかっさま」と言われるようになった。 なお、秀頼は秀吉の実子であった、と筆者は考えている。天下人となった秀吉は、世継ぎを得るための努力をしていた。温泉に浸かり、灸(やいと)をやり、漢方も試している。 また、物語の世界ほど、淀殿の日常生活は自由なものではなかった。 ただし、秀吉自身が企てた〝密通〟であった場合、話は違ってくる。 なにしろ日本の中世は、誰の子かということよりも、何処の家の子かという方が重要であった。 その観点に立てば、淀殿の相手が大野治長(おおのはるなが)であろうが、石田三成であろうが、秀吉にとってはさほど問題にもならなかったに違いない。 監修・文/加来耕三 歴史人2024年1月号『大坂の陣 12の「謎」』より
歴史人編集部