紫式部は意外と社交的で友達も多かった? 女友達からのお悩み相談をズバッと解決した少女時代
紫式部という女性は「人付き合いが苦手だった」「とてもネガティブで消極的だった」といったような印象を持たれることがあります。しかし、『紫式部集』によると、少女時代の紫式部は友人と頻繁に文を交わしたり、悩みを相談されたりするなど、かなり社交的な性格だったようです。今回はあるエピソードをご紹介します。 『紫式部集』は紫式部自身による、自作の和歌のベストセレクションです。おおよそ詠まれた順の配列だと考えられています。特に初めのほうに置かれた少女時代の和歌は、紫式部の青春時代を知るうえで貴重です。そこには後年のイメージとは違う、意外に社交的で、積極的な紫式部の姿を見ることができます。 今、大河ドラマの紫式部(まひろ)も、感情表現が豊かで、隙をついて頻繁に外出するなど、とても活発です。実際にそのようなことがあり得たかは別にして、道長と紫式部が少年・少女時代に会うためには、両者が出歩く設定にしなければ難しいでしょう。さて、前回に続いて、『紫式部集』から紫式部の少女時代を見てみましょう。 遥かなる所へ、行きやせむ行かずやと、思ひわづらふ人の、山里より紅葉を折りておこせたる、 露深くおく山里のもみじ葉に通へる袖の色を見せばや (露が奥深く置く山里の紅葉葉が色深く染まっていますが、紅葉葉と同様に赤く染まった袖の色をあなたにお見せしたいものです) 返し、 嵐吹く遠山里のもみぢ葉は露もとまらぬことのかたさよ (嵐が吹く遠い山里の紅葉葉は、ほんのわずかの間もとどまることを難しくしています) 又、その人の、 もみぢ葉を誘ふ嵐ははやけれど木の下ならでゆく心かは (紅葉葉を誘う嵐は激しいけれど、あなたと離れて都から離れて行くことは考えにくいのです) 遥かな地へ行こうか行くまいか、ためらっている友人が登場しています。この友人も同性の友人だと考えられています。後の歌の内容から、夫の地方赴任に付いていくかどうか悩んでいるのでしょう。この友人が任地に下るのをためらったのは、何か京に気がかりなことがあったのでしょうか。その友人は山里から紅葉を送ってきたというから、いったん山里に引きこもっていろいろと思いを巡らしていたのでしょう。その紅葉に通じるような袖の色を見せたいと詠んできたのです。 当時悲しみが極限に達すると「紅涙」すなわち赤い血の涙が流れるとされました(本当に血の涙が流れたら怖いですが)。その涙で真っ赤に染まった袖を見せたいと詠むことで、悲痛な思いを紫式部に訴えてきたのです。対して紫式部の返歌は、「紅葉の葉の露が、嵐にすぐに吹き飛ばされてしまうように、あなたはその場にとどまることは難しいでしょうよ」というものでした。 一見、突き放したような詠みぶりですが、嵐という喩えには、一緒に連れて行きたいという強い意思が込められていると解釈することができます。これが夫であるとすると、妻と離れたくないという強い愛情を示していることになります。 紫式部は友人のためらいの裏に、本音の部分で、一緒に下向したいという思いがあることを敏感にかぎとったのではないでしょうか。そこで、友人に下向を勧めたのでしょう。紫式部は若いころから、相手の心の機微がわかる人だったようです。だからこそ悩みを抱えた友人から率直に相談されるように、周囲から頼られていたのでしょう。 それに対して、自分(紅葉)を誘う夫(嵐)の思いの強さを認めつつも、紫式部と別れて行くのは辛いと歌を返しています。この返歌でその友人との贈答は終わっていますが、紫式部のアドバイスに納得して、夫の任地に下ったのではないでしょうか。このようにお悩み相談が和歌でなされているところが、くだけた言い方をすれば「ザッツ平安」ですね。 若い頃から、紫式部の和歌や手紙は文才と洞察力で人の心を動かす力を持っていたのでしょう。そして、このようなやりとりが後年に恋の物語を執筆することに繫がったと想像することもできるかもしれません。 『紫式部集』には他にも友人のお悩み相談に乗っている紫式部の歌があります。興味がある方は『紫式部集』をお読みいただくか、よろしければ参考文献に掲げた拙著をご覧ください。 <参考文献> 福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)
福家俊幸